ブログ - 20190711のエントリ
今朝、また、変な夢をみたが、ほとんどの夢は変なのが多い。会議の時に、チャチャを入れられるような感じで、不快であるが、的を得ているのである。
いつもの布団の中に寝ている自分が、モルタル・アパートの二階の部屋で寝ていた。明るいが、がらんとした殺風景な部屋であった。そこに小学生くらいの子供たちが動き回っている。部屋の中は散らかり、彼らに声を掛けても知らん顔で好き勝手なことをしている。
ここはどこなのか?思い出そうとしてもわからない。子供たちの母親らしき者の顔も見えた。
不安感が湧いた。自分は、金が一円もなく、財布は落としたのか、ポケットの中にはなかった。
嫌な夢なのに、その世界から離れたくなかった。現実ではないから、責任はなく、見てれば良いだけである。
部屋の外の庭が明るみ、朝が来たのがわかった。
夢の分析をすると、驚くほど的を得ている。以前、住んでた家を取り壊すつもりで、家具を全部、運び去った。その時の殺風景な食堂間の印象、その耐えきれない淋しさがいつまでも心の底に残っていた。現在、金がすっかりなくなっていることなどが、夢の原風景なのである。
悲しさは心地良いものでもある。イタリア映画の傑作(ひまわり)を見て、感じる。悲しみ、それを観たくて味わたくて、ユウチューブで何度も観ている。悲しみは嫌でもあるし、心地良くもある。
つまり、人間の感情には同じ現象に対して、相反するものが同居しているのである。プラスとマイナスと言っても良いが、両者の性質は実は同じもので量の違いでしかない。多い方が+で少ない方が?である。
これがデジタル、AIで認識できるか?
認識できない。
デジタルは悲しみは、良くないことだと認識させられば、良くないことだと決定してしまう。文化や芸術は、陰翳礼賛にみられるように対立物や曖昧さによって効果を出すことが出来るが、デジタルは出来ない。AI歌手やAI小説など囁かれているが、姿を現しはしない。不可能であるからだ。
製造業、芸能、流通業、農業などあらゆる分野をデジタルは占領したが、残る文化・芸術では手をこまねている。小説家は芸能人になり、小説が大量活字生産物になってしまっている。デジタル資本主義に征服されれながら、文化・芸術は消えていくであろう。その時、人間と言う種族も消えてしまう。