ブログ - 20190616のエントリ
今日の朝刊に、ひきこもり支援(?)施設に強制的に連れて行かれ、高額の金を払わされた、という記事が出ていた。ジョーク?ではないか?と考えながら読んだが、現実であった。何とも知れない世の中になったなったものである。
わたしは五十年前、引きこもりであった。原因は単純であった。小学校の頃から、教育ママにしごかれて、受験勉強に青春を奉げたのに、地方の二流大学の試験に落ちた。燃え尽きて、自律神経失調症になった、ドモリが治らない、父母の仲が悪く、父はアルコール中毒で女狂いであったなど、思い返せば確実に分析できた。その頃、自立しようとして断食道場に行って、一週間、断食をしたが、食欲に負けてしまった。部屋に籠り、太宰治の小説を読んで、自分の仲間がいることを知った。小説家をはじめ芸術家なんてほとんどが、引きこもりなのである。その頃、わたしは、お菓子を買って食べ、断食した分を取り返そうとした。夜になると、外に出て、彷徨した。新婚夫婦の部屋の覗き見をした。半年間ほどそんな生活をし、人生の曲がり道を遠回りしながら生きて来た。今は、死、という解放を待っている。
私の身近に、引きこもりの女がいるが、放置している。引きこもり、が心地良いから、そうしているのである。
引きこもりは、良い経験になっていた。今は、野菜作りに精を出し、町のいろんな会に出て、言いたいことをしゃべり、時には酒を飲み、カラオケを歌っている。引きこもりなんて、体が許さなくなっている。
中には一生、引きこもりの人だっているだろうし、それを無理に連れ出して何の効果があるだろうか?時間が薬、なのである。引きこもりの人生、それもまた、人生である。