ブログ - 20181203のエントリ
わたしはもともと学校の成績が悪く、高校では物理、化学で赤点を取った。が、量子力学、それを哲学的に敷衍することには興味があり、物理・科学を哲学的に考える傾向がある。
最近、性的少数者が新聞にもよく取り上げられ、捉え方や結論づけにマスコミも戸惑っている。そのことは自分自身や性に対する考え方がからんで興味深い。以前のブログにも両性具有のことは何度も書いているが、今回、量子力学との関係づけに思いついた。
性的少数者の分類は以下のように分けられる。
1男でありながら男に性的関心がある。
2女でありながら女に性的関心がある。
3男女(おとこおんな)であって男女に性的関心がある。
4男女であって女に性的関心がある。
5男女であって男に性的関心がある。
以上の分類に分けられるであろう。
1 0である。
2 1である。
これは従来の物理学の考え方でデジタル言語を構成している。
3 0である。1である。0でもあり1でもある。
これは量子力学の考え方である。これを取り入れることで量子コンピューターは組み合わせが増え、飛躍的な数のデジタル言語を産み出し、すでに電気機器の様々な分野で活躍している。人間の生き方においても性的少数者を認めることで、多様性を認め、人生が豊かになり、考え方や思想・文化に大きな影響を与えることはまちがいない。
0でもあり、一でもある、というのは、男でもあり女でもある、と言う現象である。
その時代の流れの中で、(レア)も、変わり者、と言う世俗の印象から、希少、という位置に持ち上げれれるのである。だから、自分が他人と異なることに劣等感をもってはいけないし、社会に貢献していることを堂々と自己主張をすべきである。
わたしは小説が好きで、自らも駄作を書いているので、書く側の立場もわかる。時に、自分の作品への反省も込めて、現代の小説を読むことがある。新聞に取りあげられたものなど、本屋で立ち読みしたり、図書館で借りたりする。すると、意外なことが分かって来た。どの小説も書き出しから、長たらしいばかりで、いつまでたっても入口が見えないのである。カフカの(城)は偉大な作品で、(城)入り口が見えないことがテーマであるから、それが狙いだということがわかるが、それほどの作品でもないものに、いつまで読んでも活字が並んでいるばかりというのは腑に落ちない。しかも、それがノーベル賞作家、芥川賞作家、さらにベストセラー作品であるということになると、文学界への不信を抱いてしまう。それに評論家の立場である。彼らは間違いなく出版社の宣伝屋であるのであるから、評論家などとさも意味深い仕事の肩書など、つける理由はないし、時には作品の欠点なども指摘すべきである。
現代日本文学で古典として残るものは村上春樹の初期の小説くらいであろう。彼の初期以降の作品は長ったらしいばかりで読み進む気がしない。それに、小説家が新聞などに顔写真を出したり、大学の講師や役職をもらったりするのはおかしい。昔の小説家は、極貧生活の中から、傑作を生みだしたり、刑務所の中で書き上げたり、そんな不遇の環境が作品を作り上げたのである。
これは文学の世界だけでなく、芸術の世界一般に言えることである。
それに本の値段にはページ数がからんでいることもおかしい。だから、作家は長ったらしく書くのであろう。