ブログ - 20180421のエントリ
聖書を学び始めて三か月ほどになるが、いろんなことがわかってきた。歴史的にも世界的にもベストセラーであり、それだけの価値があることはわかるが、内容についての疑問・発見があった。
書き出しの(創世記)に、神が光あれ、と言われて、光が現れた、に始まり、陸が出来よ、海が出来よ、いろんな生物が現れ出てよ、といわれてそれらができた、と言う部分は学校で習った、地球、生命の発生の経緯とはまったく異なる。神はそんな偉大なことをしたというたとえ話ではないか?創世記の文章をそのまま信じるとおかしなことになる。信者に質問したことがあった。では、あなたの子供に神の言葉を教えるのですか?学校の教えを教えるのですか?と問うと、学校の教えはそうだが、聖書にはそのように書いていると教えるという返事であった。
今になってわかるのは、創世記が書かれた時代はパピルスに文字を書いていたように、文字が出来て間もない時期で、文語は話し言葉の延長線上でしかなかったのである。口語と文語の区別ができず、ほら話も直喩、隠喩、寓話の区別が出来なかった時代であり、個人主義も出来ていなかった。(・・思う)や(・・考える)(・・であろう)と言う表現も一切ない。
そのあたりをわきまえないで聖書の言葉をそのまま信じてしまうと、ある宗派みたいに(血を入れてはならない)と言う言葉が聖書に書いてあるから、怪我をしたり病気になっても輸血はいっさいしない、と言う極端な教義が出来てしまうのである。あるいは、人を殺してはならないと書いてあるから、子供に武道や格闘技に一切、関わらせないということになってしまう。
カラオケ教室や年金の会などに顔を出し、雑談になると、セクハラが話題になる。加害者の男がバカだとか、被害者の女性が気の毒だとか一般的な反応に終始するが、肝要なことが忘れられている。
男はタネをあちこちにばらまいて、多種、多様な子孫を残すという本能があり、女は子供を育て家庭を守る本能があると言うことである。それは良い、悪いの次元ではないし、基本的に否定は出来ない。ただ、社会の秩序を維持するために、レイプはいけない、セクハラはいけない、不倫はいけないという掟が出来ているに過ぎないのだ。
マスコミもそこまで突っ込んで言及はしない。善悪の論点から、結論の出ない雑談が営々と語られ、終わりのないモグタ叩きがつづき、そのうち違う出来事や事件が登場して、マスコミも忘れ、また、現れてくる。今の社会を象徴するような現象である。信念のない社会、政府、公務員、マスコミ人たちが金を稼ぐために一生モグラ叩きをするばかりで、モグラは地面の下にもぐったままで姿を現さないままである。
相手の社会的役割をきちんと認め、その上で言動を起こすことが基本である。
こんな私だって、名誉職ではないし知名人でもないからマスコミの餌食にはならなかったが、叩けばすごい埃の出る男なのだ。