ブログ - 20180406のエントリ
生きる上において、善悪の判定は非常に大事なことである。それは猫の目のように変わるので、人は迷ってしまう。戦時中であれば、反戦者は非国民と言われて悪者にされるが、戦争に負けて平和になれば善人にされる。これを単純化すれば、その社会に反する者は反社会勢力として悪人になるが、その社会が悪の世界になれば善人になるというわけだ。ただし、為政者はその時代が悪い時代などとは決して、言わない。
個人においては、健康に反することあるいは自分の繁栄に反することは悪であり、それらの維持をすることは良いことになるが、健康を過信して大食いをしたりすれば、高血圧、糖尿病などの病気にかってしまう。病弱者であれば生きることがむずかしくなるが、健康に気を付けるようになって長生きすることがある。悪い社会であれば暴力革命を起こして変えることは良いことなのであり、良い暴力、良い戦争だったと言う事になる。歴史を見ればよくわかる。
このように善悪や暴力は客観的に捉えられるべきものであるが、過去になってしまわなければ判定が難しいし、過去になっても難しい場合がある。
昨日、(王国会館)に行って、聖書を学んだが、そこで日頃のわたしの考えと重なりあう部分を発見した。喜ばしいことで、小冊子(聖書は実際に何を教えていますか)の28ページに書いてあった。
その項目の5である。(神の霊の子たちの一人が自ら悪魔になったのです)と載っており、それが具体的に実例をあげて書いてある。
”欲してはならないものについて考え続けるなら、悪い欲望は非常に強くなるでしょう”
人間の心の中には善悪が共存しており、わたしは善悪の判別は認めていない。さらに飛躍して考えると、善でもあり悪でもあり、それらは単なる触媒としてのエネルギーでしかないととらえている。シュレディンガーの猫におけるように、(死んでもいるし、生きてもいる)、また量子コンピューターにおけるように、0でもあり、1でもある、のである。
ここで宗教思想と物理化学の一致を知った。
随想録になるのか小説になるのかわからないが、(歩き神)を書き続ける上でも、聖書は非常に有効になってきた。