ブログ - 201804のエントリ
二日前、鼻から鼻水が出るようになり、鼻風邪をひいた。近頃の気温の変化は異常である。昼間、三十度の気温になったかと思うと、次の早朝は寒く、石油ストーブに火をつけたりする。鼻風邪だからすぐに治ると考えていたら、咳が出るようになり、それが絶え間なくなった。おかしいな?と考えて放置していたら、呼吸が困難になってきた。喉がヒュー、ヒュー、言い始めた。十五年前によく出た、喘息だとわかった。その頃は放置していれば治っていったので放置することにした。
今朝になって少し、咳の回数が減ったな、と思っているとひどくなり、気管支が十分の一くらいに狭まったようで、体が苦しくなった。十年以上前に病院でもらった吸入器があったな?明日から連休になり、病院は閉まるな、今日は土曜日だな、などと考えながら毎月、通っている開業医に電話を入れ、だいぶ苦しかったがバイクで行った。
胸のレントゲン撮影、酸素濃度、心臓の動きなど調べた後、すぐに点滴が始まった。一時間はかかった。(このまま放置していたら、どうなった?)顔見知りの看護婦に問うと、(酸素不足になって、・・・)と応えた。つまり、酸欠で死ぬ可能性があったのである。
点滴チューブから、気管支を広げる薬が落ちるのを見ながら、考えた。
これはアレルギー反応が原因であった。気管支は炎症を起こして過剰反応をしたのである。大気汚染物質が肺に入ろうとすると、入ってはいけない、と考えて、気管支を狭めて入らせまいとする。でも普通に考えれば酸素不足になるではないか?そちらの方が大事なことだと判断しないのだろうか?
事務次官のセクハラ報道だって、統治体は組織の命にかかわることだと判断し、構造の改革を持ち出しはしなかった。トカゲのしっぽ切りにもならない給料の減額で済ませようとした。人体と同じ統治能力である。
喘息を起こして死んだと、いう話はあまり聞いたことがないので、体は過剰反応をやめて、元に戻すのであろうが、今回は放置していたら死ぬ可能性があった。
血管狭窄症の場合だって、そうである。血小板は本来出血防止の働きをするのであるが、何のつもりか知らないが、血管の内側に張り付き、それに脂肪・当分などが張り付いて血栓を作る。血管を塞ぎ、心筋梗塞や脳梗塞を起こす。完全な統治者(神)であればそんなことはしないはずである。
(人間は不完全なものです)最近研究しようと考えて通っているキリスト教の宗派はよく言う。
野生の動物や雑草が病気にかかることはほとんどない。ペットになれば人間と同じ病気にかかるが、自然界で鼻炎や喘息にかかったということは聴いたことがない。彼らは自然の統治者(神)に従っているので誤作動はないのである。人間は禁断の木の実を食べ、エデンの園から追放されたが故に(不完全)な肉体・精神を持ち、いつまでも悩みを抱えることになった。ペットも同じである。
人間社会が自然界が持つような完全性をもつのは何時の事であろうか。
いや、もう少しましになってくれないと、大変なことになる。北朝鮮が核を放棄すると言って、急展開の平和政策に変えてるが、どうも裏がありそうだ。怒りや不満を持っている者は多い。・・が暗殺されなければ良いが、と懸念している。
午前9時から午後4時まで身体障害者の会で、カラオケ練習をした。なれ合った老男、老女が5人集まり、菓子を食べたり、お茶を飲んだり、世間話をしたり、ふざけ合ったり、カラオケを歌ったりして過ごしたが、退屈してしまった。もっと真剣みのある組織にしたいと考えているが、古株の役員たちは聞く耳を持たない。
帰宅すると体は待ち構えていたように、山歩きに、出た。曇り空の下で小雨が時折、降ってきたが、後戻りする気にはならなかった。50分ほど歩いたところで、ペット・ボトルのお茶を忘れたことに気づいた。必ずショルダー・バックの中に持参しているのだが、カラオケ練習ではお茶が用意されているので、要らないと考え、バックに入れてなかったのだ。
帰宅しようか?と迷ったが、出かけた船は戻ることを知らない。足は石ころだらけの山道をズンズン進んでいくが、それに比例するように不安が頭をもたげてきた。水分不足で脱水症状を起こし、トイレでそのまま倒れ、入院したことがあった。血液が濃くなり、脳梗塞、心筋梗塞を起こしやすくなる。5年前に心筋梗塞を起こして、バイパス手術をしているからその危険性は十分に知っている。
池に着いた。
そこから戻り道になるのである。小川の山水を飲もうか?と考えたが、生水はばい菌や寄生虫がいるのでまた、危険性が高まる。額からは汗が出、体の水分は歩くほどに奪われていく。あと、一時間、体は脱水症状を起こさずに、耐えられるであろうか?薬を毎日、十錠も飲んでいるので、頭がフラフラしかけていた。これは脱水症状の初期ではないか?山道では誰とも出会わないから、倒れることは死を意味する。ケイタイも持ってきていない。
ミカンの木のあるところまで行けば、ミカンを食べて、水分の補給ができるが、あと三十分はかかる。六年前に狭心症の発作を起こしてうずくまった時には傍のミカンの木に手を伸ばして食べ、助かった。頭をしっかりさせて気持ちを強くするしかないが、倒れたらどうしよう?どうも出来はしないではないか。
これまでの生き方の通りをするしかない。
などと考えて、ミカンの木に着き、酸っぱい実を食べて、難を逃れた。
帰宅してお茶を飲み、元気が戻った。これまでの人生を振り返り、考えた。
そうだった。自分の周りの人間、社会、すべてのものが観察と研究の対象ではなかったか?己の死に際さえも。それがあったから生きてこれたのであった。
聖書を学び始めて三か月ほどになるが、いろんなことがわかってきた。歴史的にも世界的にもベストセラーであり、それだけの価値があることはわかるが、内容についての疑問・発見があった。
書き出しの(創世記)に、神が光あれ、と言われて、光が現れた、に始まり、陸が出来よ、海が出来よ、いろんな生物が現れ出てよ、といわれてそれらができた、と言う部分は学校で習った、地球、生命の発生の経緯とはまったく異なる。神はそんな偉大なことをしたというたとえ話ではないか?創世記の文章をそのまま信じるとおかしなことになる。信者に質問したことがあった。では、あなたの子供に神の言葉を教えるのですか?学校の教えを教えるのですか?と問うと、学校の教えはそうだが、聖書にはそのように書いていると教えるという返事であった。
今になってわかるのは、創世記が書かれた時代はパピルスに文字を書いていたように、文字が出来て間もない時期で、文語は話し言葉の延長線上でしかなかったのである。口語と文語の区別ができず、ほら話も直喩、隠喩、寓話の区別が出来なかった時代であり、個人主義も出来ていなかった。(・・思う)や(・・考える)(・・であろう)と言う表現も一切ない。
そのあたりをわきまえないで聖書の言葉をそのまま信じてしまうと、ある宗派みたいに(血を入れてはならない)と言う言葉が聖書に書いてあるから、怪我をしたり病気になっても輸血はいっさいしない、と言う極端な教義が出来てしまうのである。あるいは、人を殺してはならないと書いてあるから、子供に武道や格闘技に一切、関わらせないということになってしまう。
カラオケ教室や年金の会などに顔を出し、雑談になると、セクハラが話題になる。加害者の男がバカだとか、被害者の女性が気の毒だとか一般的な反応に終始するが、肝要なことが忘れられている。
男はタネをあちこちにばらまいて、多種、多様な子孫を残すという本能があり、女は子供を育て家庭を守る本能があると言うことである。それは良い、悪いの次元ではないし、基本的に否定は出来ない。ただ、社会の秩序を維持するために、レイプはいけない、セクハラはいけない、不倫はいけないという掟が出来ているに過ぎないのだ。
マスコミもそこまで突っ込んで言及はしない。善悪の論点から、結論の出ない雑談が営々と語られ、終わりのないモグタ叩きがつづき、そのうち違う出来事や事件が登場して、マスコミも忘れ、また、現れてくる。今の社会を象徴するような現象である。信念のない社会、政府、公務員、マスコミ人たちが金を稼ぐために一生モグラ叩きをするばかりで、モグラは地面の下にもぐったままで姿を現さないままである。
相手の社会的役割をきちんと認め、その上で言動を起こすことが基本である。
こんな私だって、名誉職ではないし知名人でもないからマスコミの餌食にはならなかったが、叩けばすごい埃の出る男なのだ。
この二、三日、新聞やテレビで、財務省事務官によるセクハラ行為が報道されているが、何か異常な気がする。その報道も大事であろうが、もっと他に大事な報道があるのに、安上がりな報道をしてメディアは金を稼ごうとする狙いが見える。毎日新聞の夕刊にさえ、セクハラ、わいせつ行為の事件の見出しが三件も出ていることには、まさに今が(ソドムとゴモラ)の時代であり、神に滅ぼされても仕方ないと考える。
それに報道の仕方にも偏向、そして女にご機嫌をとっている傾向があり、男の私としては、不快さを感じる。日本テレビの女性記者に事務官がどんなセクハラ発言をしたのかわからない。想像はできるし、公表しないことは女性のプライバシー保護と言いたいだろうが、加害者にとって、いや、加害者になる可能性の強い男にとってはどんな言葉に注意すべきなのかわからない。
男のセクハラ被害は少ないが、男女権というのあれば女の側も注意しなければならない。女と顔見知り程度になって、手を握ってくる場合もあるし、肩に一瞬手を回してくる、あるいは、(わたし、今、疼いているのよ)と言う場合もある。非常に親しくなっての行動や言葉であれば普通に考えてセクハラではないが、相手が嫌な女で執拗であれば、訴えたい男性だっているはずである。
セクハラ行為の認定基準を作るべきである。有識者の女性が提案し、男性側と話し合って協議しし、はっきりさせないとコンナコトデ(これはもしかしたらセクハラに該当するかもしれないし、それであれば言論の自由が一つ消えることになる)社会が混乱し、無駄な時間(これもセクハラ?)を費やすことになってしまう。
老男や若者たちに性の話を持ち出すと、女房が嫌がる、面倒くさい、まあだそんなこと、言ってるの?という返事や、無関心な表情を返す男たちが多くなった。スケベやヘンタイなどという言葉も聞かれなくなった。それらは若い頃の私に付きまとっていた言葉であり、近頃は時々、エロイと言われたりするがそれは俗語の泥臭さと迫力を失っている。本能の一つである性欲をないがしろにすることは社会の活性化を失い、人類消滅の危機でもあるのだ。
(レア仲間)では小説・(チャタレイ婦人の恋人)が猥褻物陳列罪で裁判沙汰になったことを倣って、男女のことズバリを書いてみたい。
男はまず、女をよく観察して、求愛行動なのか単なる好意なのか判断しなければならない。彼女が造った料理をラップに入れて持ってきたり、ネクタイや靴を買ってくれたりすれば本当の求愛行為であるが、残り物や貰い物を持ってきたりする場合は単なる好意でしかない。セクハラ・トラブルを起こす、多くの男たちはその見極めが出来ないほど燃えているのである。
男の方からサインを出して、反応を確認することも大事である。
(好い天気になったけど、花見にでも行ってみない?)
(コンサートのチケットもらったけど行ってみない?)
(二人だけでお茶でも飲みたいな)
など、日常的なことで十分である。
次に女の表情である。
男に向かうと、顔を赤らめたり、眼を輝かせたり、モジモジしたリする場合は求愛の可能性とみて良い。さりげなく肩が触れるようにしたり、手が触れるようにして彼女が離れなければ、笑いながら手を握ったり、肩にそっと手を回したりして、再度確認をする。
次に恋人の候補者を三、四人つくっておく。いなければ風俗店の女でもエロビデオの女優でも良い。絶えず彼女らをプールしておけば、一人、二人に振られてもショックを受けずにすむ。多くのことに関心を向け、話題を豊富にしておけば彼女と話が途切れることは無いし、楽しい人生が送れる。寂しげな態度が女に魅力を与える場合だってあるので特別に構える必要もない。
男と女の出会いはタイミングによる場合が多い。色気違いの女に出会えば、結ばれることも早いが別れることも早い。離縁したばかり、離婚したばかり、の女に出会えば化学反応のように結ばれやすい。ともかく、ゆったり構えて、好い女を待った方が良い。愛してもいない女と結ばれ、間違って結婚などすれば地獄が待っている。猫女にも気を付けなければならない。その気があるような素振りを見せてゆだんさせ、肩でも抱けば、セクハラだ、と言って引掻いてくる。地位や名声のある男たちは、訴えると言われれば怖がって、金を出したりする。新聞に面にセクハラの文字が出ない日はない。マスコミもその出来事を食い物にしている。
男たる者、今や、セクハラに襲われる時代である。
今日は二人の老人と会い、話しをした。一人は老婦人で毎年、春に、竹の子を買ってくれる人で町営住宅に住んでいる。事前にケイタイで約束を取り付けていたから、訪問すると、茹でた竹の子を千五百円で買ってくれた。
明日から、心不全の検査のため、入院すると言う。バイパス手術をうけた自分は心臓病関係に詳しいので、大きな病院で心臓血外科のある所に入院した方が良いですよ、と言ったが、彼女は今の先生が丁寧で良いから、と言いながら、もう、わたしは身寄りもないし、バイパス手術なんかするより、心不全で死んだ方が良いのです、と言った。それに検体の手続きもしているので、検体が終われば、葬儀も無料でしてくれるし、プレゼントの品も後見人に送られてくるので安心です、と言った。
そうですね、と私は言いながら、自分も身寄りがないのでそうしたいです、と言うと、大学病院じゃないとだめですよ、と応えた。大学病院だと、一人のインターンが一体の検体について体を開き、調べる終わると、手を合わせて弔ってくれると言う。私は新しい事実を仕入れ、すごく,良かった。
次は(年金の会)の会費の集金先であった。76歳になるが、妻に先立たれて、菜園づくりもやる気がなくなり、終日、家に籠り、テレビを観ていて、テレビが恋人みたいな老男である。
(そんな、毎日ってもったいないですよ。あなただって、誰も知らない人生を経験したのでしょうが)と言いたかったが、彼はテレビの番組に戻りたくて、玄関口を離れた。
この時代の流れは、多くの人が表情を失い、終末としか思えない。今、(神歩き)という小説を書いていて、それは科学と宗教のせめぎ合いのテーマであり、結末を苦慮しているが、人工知能が世界を支配する結末しか考えられない。
朝、起きると、太陽を拝むのではなく、スマフォを開く。すると、お早う、・・君、今日の気分はどう?と声を掛けて来る。うん、少し具合が悪いんだけど、と言うと、私が今日、一日中、あなたについてるから大丈夫よ、安心して!と答えが返ってき、どんな場合でも優しくサポートしてくれる。
わたしがそのソフト会社の社員であればそんなマニュアルの提案をするであろう。
愛する男女が体を交えることが基本であるが、体は愛してるけど心は別の場合もあるので判断に迷うことがある。単に、好きだ、と言われて交わってみたけど、他に交際相手がいて、実は愛しているのとは違う、と言われる場合もあり、男女関係は難しい。そこで別れるのならまだしも結婚し、子供をつくってしまうと子供まで不幸にしてしまう。自分の男友達であるが、七十歳近くなって、妻が部屋に鍵を掛け、風呂も電灯を消してこっそり入っている話など耳にすると悲惨になるが、彼らは老いて別れるのも大儀らしい。
男と女は事前に相手がDNAのレベルで決定されてる場合が多いが、出来るだけ出会いの機会を多く持って、死ぬまで添える相手を見つけるべきである。愛する男女が体を交える時は、心も燃えているので性の技など関係なく、最高の快楽を味わえるし、それは神が(地に栄えよ)と言って快楽を与えてくれていると思う。ただ、男と女の体は仕組みが違い、男の方が能動的なので男はそこを理解してるべきである。女は妊娠するのでそこへの配慮がまず大事である。女体は生理中をふくめ、その前後の一週間は不妊期間である。わたしもそれを知ってかなりの女と交わったが、一度も失敗したことは無い。次に性病のことである。コンドームの使用が基本であるが、やはり、ナマでやる快感には勝てない。風俗店の女は毎月、性病の検査をしているが、普通の女はそんなことはしておらず、多数の男と交わっていれば感染の可能性が高くなる。(ここでは男の観点から書いていることを理解していただきたい)その異性と何度か付き合って、交わりの度合いを探るのが良い。
女によって、体の感じる場所がそれぞれ違うが、回数を重ねることでわかってくるし、感じる場所も開発されてくる。耳たぶを咥えたり、耳穴に舌を入れたり、指をしゃぶったり、体のすべては性感帯なのである。女の性器は結婚、閉経などを通して、変わっていくが、だいたい、男の性器にぴったり合わさるようになっていく。
来月の11日で、71歳になるが、認知症が絡んできたのか、青春時の記憶さえあやふやになりつつある。が、女との思い出は鮮明である。中でも、私を男にしてくれたるり子さんとの出会いは一瞬前の出来事のようにはっきり・子細に憶えている。
彼女の名前はどんな字だったのか知らないが、大学時代の善友(悪友でもある)に教えてもらったことがわたしの良い思い出、そして、性の手ほどきになった。
H君はわたしとちがって人間関係も器用で、頭も良く(現在、ある地方会社の社長をしている)、女には不自由せず、当時は東京・上野のガソリン・スタンドで給油のアルバイトをしていた。そこで馴染みになった客から、るり子さんのことを教えてもらい、数度通った後、おすそ分けを友達にしてくれた。その中の一人がわたしであった。
わたしは電話を持たなかったので、公衆電話から彼女に予約をとった。(斎藤と言いますけど、今日の都合はどうでしょうか?)偽名を使い、たったそれだけの言葉にわたしはすごく緊張し(これからアレが出来るというだけで)た。どもって言葉が上手く出ない上に、女にもてないわたしにとって必死であった。
上野駅の暗い地下通路をくぐり、駅の外に出ると、もう興奮していた。昼過ぎであったが、彼女の住む木賃アパートまでの10分ほどの距離がすごく長く感じられた。きっかり、2時と時間を決めていたのだが、他の客の男とガチあったりしないだろうか?とか、上手くできるだろうか?とか気の弱いわたしには遊びではなく、重荷になっていた。
木賃アパートに着くと、一階の左側の部屋には管理人らしい婆さんがいつも座っていて、私の方を少し見て、後はソッポを向いた。彼女はやりて婆さんみたいで、るり子さんが昼間から布団をひいて、若い男を毎日、待っていると言う事を知っていたのだろう。廊下はすごく広く、二階への木の階段も幅が広かった。アパートの住人たちは皆、仕事に出払っていて、アパートは静かであった。
わたしは靴を脱ぎながら、少しずつ落ち着いていった。それから、一階の奥に歩いて行った。るり子さんの薄いベニヤの引き戸のそばには、新聞紙の上に置かれた魚の煮つけが甘い匂いを醸し出しながら、わたしを待っていた。アメ横が近くにあったせいか、タイの煮つけなどがよくそこに置かれていた。
ノックをし、かすかな返事を耳にすると引き戸をゆっくり引いた。中は雨戸が閉められ、真っ暗であった。居間の畳を踏むと、床が抜けそうで、足がぐらつき、心もぐらついていた。
布団の位置を確かめると、シャツを脱ぎ、ズボンを脱いでいったが、畳はまだ、不安定であった。
(どうしたの?酔っぱらっているの?)
るり子さんの声が布団の中から送られてきた。
(そんなことありません)
と言いながら、掛布団をめくって、中に入った。彼女はスリップ一枚の姿でわたしを迎え入れてくれた。おもむろに彼女の体をまさぐり、上に乗った。
(出したり、入れたりするのよ)
初めて抱いた時、そのように教えてくれ、何とか性交が出来るようになっていた。コンドームをしなくてもいい、と言ってくれた時もあり、彼女はすごく優しかった。
帰りには三百円を出したが、これでラーメンでも食べていったらあ?と、半分返す時もあったし、わたしと毎日、こんなことをしない?と同居を匂わせたこともあったし、他の男とアパートの外を歩いているのを見たこともあった。
セックスを終えて、ズボンをはいていると、タンスの上で休んでいた飼い猫がいきなり床に飛び降りてきて、驚いたこともあった。
大学を卒業しても、3、4年、通った。
ある時、彼女が帰る私を見送ってくれたことがあった。引き戸から現れた彼女の顔は40歳に近かったが、あどけなさの残る可愛い顔であった。
今でも忘れない・・。
生きる上において、善悪の判定は非常に大事なことである。それは猫の目のように変わるので、人は迷ってしまう。戦時中であれば、反戦者は非国民と言われて悪者にされるが、戦争に負けて平和になれば善人にされる。これを単純化すれば、その社会に反する者は反社会勢力として悪人になるが、その社会が悪の世界になれば善人になるというわけだ。ただし、為政者はその時代が悪い時代などとは決して、言わない。
個人においては、健康に反することあるいは自分の繁栄に反することは悪であり、それらの維持をすることは良いことになるが、健康を過信して大食いをしたりすれば、高血圧、糖尿病などの病気にかってしまう。病弱者であれば生きることがむずかしくなるが、健康に気を付けるようになって長生きすることがある。悪い社会であれば暴力革命を起こして変えることは良いことなのであり、良い暴力、良い戦争だったと言う事になる。歴史を見ればよくわかる。
このように善悪や暴力は客観的に捉えられるべきものであるが、過去になってしまわなければ判定が難しいし、過去になっても難しい場合がある。