ブログ - 201509のエントリ
なぜ私達は広島・原爆ドームや長崎の軍艦島、シリアの内乱被災地や東北大震災の写真に惹かれるのであろうか?私達ではなく、私だけかもしれないが、原爆ドームや軍艦島などは世界遺産にまでなっている。ナチスの収容所、ガス室などもそうである。(負)の美ではないかとわたしは推測する。秩序の観念から言えば触れたくない醜いものとして扱われるものを整形美術した顔以上の魅力を持っている。
結論を言えば(美)とは秩序に基づいているのではなく、エネルギーあるいはエネルギーの痕跡なのである。エネルギーを感じるから感動するのである。否定されるべき(負)の痕跡まで遺産となるのである。(美)の概念は変わらなければならない。秩序正しいとか整っているとかではなく、いかにエネルギーを発し、観る者に感動を与えるかということが基準になるべきである。
顔形ではなく、表情なのである。表情の現す内部からのエネルギーなのである。それが芸術、文化になりえるのである。今後、破壊された顔や体の傷跡、手術跡、生命の腐敗状態なども芸術になりえるだろう。美の価値基準は変わってくる。
エネルギーを傾けた私の小説がなぜ芸術にならないのであろうか?作家以上のエネルギーを傾けているのだからそれだけの感動が与えられても良いはずなのに。演じる筆力が欠けているのであろう。力を入れる部分が的外れになっているのかもしれないが、あと一ヶ月くらいで完成する(ガラパゴスの女)に賭けてみたい。応募はするが、外れ場合はこのHPに掲載するつもりです。
履歴書を見れば私は高学歴であることがわかります。ところが普通自動車免許を取るのに一年間もかかり、学科試験にも落ちました。
七十年間も生きてきて世間を知ると、学歴や学力から切り捨てられた人がたくさんいることがわかりました。学校にはまったく通わなかった人、中卒で自動車板金塗装の仕事をしている人、まったく働いたことのない人、暴力団の人などさまざまな人々と出会い、その中には素晴らしい能力がひそんでいました。説明書もないのに自動車のエンジンの分解・組み立てをしたり、見よう見まねで家を建てたり、耕作放棄地を開拓して自然公園をつくったり、一、二回の講義でパソコンを打てたり、意外な能力がありました。近代になってから学歴信仰、学力テストがはびこり、就職する場合には大きな力を持っています。産まれた時から人の能力は数値で計られます。同時に素晴らしい能力を切り捨てています。
何故なのでしょうか?
学力テストが文部科学省の役人や受験業界の生活権、利権になっているから、変えようとはしないのです。世の中の仕組みから外され、自殺者や犯罪者たちを増やすことにもなっています。
公立学校の教科書はなぜ文部科学省選定のものでなければならないのでしょうか?
そろそろ変わるべき時代に入っています。
中国が催した(抗日戦争勝利七周年式典)に阿倍総理は欠席し、韓国の朴大統領は出席した。朴大統領はアメリカの顔色を伺いながらやむを得ずに出席したように、毎日新聞は書いているが私はそうは考えない。なぜなら、三年前から中国と韓国は歩調を合わせるように日本叩きを始めているからである。先ず尖閣列島の領有権を巡って中国は矛先を日本に向け、韓国も竹島に前大統領が上陸して領有権を主張し始めているからである。同時に両国とも太平洋戦争における日本の侵略・加害行為を世論や世界に訴え、韓国は従軍慰安婦の像をアメリカの都市に建てたりしているからである。事前に打ち合わせをしていたと想像するのは邪推であろうか?
その式典にはソ連のプーチキン大統領も出席し、北方領土の開発を始め、日本への返還拒否の態度を見せている。日本は自らが八十年前に描いた大東亜共栄圏の絵を中国にさらわれ始めている。日本は式典に参加し、少なくともアジアの一国であることをアジアや世界に示すべきであった。アメリカが日本の軍事力の現実化を求めている機会であるから、この式典を期にアメリカと等距離を置く方向に進むべきであった。
日本の外交能力の低さは以前から気づいていたが、今回は実感させられた。国家公務員試験に合格しただけで世間や社会、ましては世界のことを知らない者たちが動かす外交は机上論ばかりであまりの貧弱さに怖くなるばかりである。民間の労働組合で会社側と妥結や協定を結ぶ時には、(今後、この内容につき、異議申し立てはいっさいしません)と言う項目を入れるが、国が結ぶ条約には入っているのであろうか?入れていればその後に異議申し立ては出来ないはずである。戦争の講和条約などを読んでみたいものだ。