ブログ - 20111030のエントリ
35年前に付き合った女の顔がまざまざとよみがえる、数秒前に会って来たといわんばかりの鮮明さで。振られたがゆえに魅力を復活させているが、今どこに住んでいるのか、生きているかどうかも分からない。二度と会えないという絶望感が渇望をうんでいる。だが、近くにいるオンナは数秒前に会話をしたのに数百年前のような時間差、隔たりがあると言うより、存在さえ消えている。この矛盾は時間の観念に不審をうんでしまう。35年前と数秒前が逆転してるばかりでなく、35年前の女は生々しく生きているのに数秒前の女はユウレイ同様なのである。いったい、時間とは何なのであろうか?確かに時間を導入することにより、文明は発達し、信じられないような機器を生んできた。例えば、カメラ、テレビ、携帯電話なと持ち出せばきりがない。昔の人からみればこれらの機器の中には超能力が入っていると考えるであろう?
だが、もしかするとこれらの機器は人間が昔もっていたテレパシーを機械に切り替えたに過ぎず、テレパシーは自然の力の一つにすぎないのではなかろうか?
NHKで(助けを求めない孤独死)というような題で報道されたのは3年位前のことであった。30過ぎの青年であったが,職を失い食べるものがなくなって餓死してしまった。考え直してみると、(助けを求めないのではなく(助けを求めてはいけない社会)というべきではないか?困った時に友人や親兄弟、親戚、社会に助けを求めるのは恥であり、相手に迷惑をかけることなのである。たとえ、死にかけていても。これは極端な考えだと反論されるであろう。確かにその部分はあるが、その傾向があることは否めない。
日本は困ったとき、助けを求めてはいけない国なのであり、苛められたときも助けを求めてはいけない国なのである。これは(恥の文化)と密接に絡み、戦後60年たってもこの伝統は残っている。だから世界一の自殺者を生み、イジメ、セクハラが頻発するのである。
(馬車馬のように働いて得たものは破壊された自然と空虚な心、幸福とはなんだろう?)
このテレビのコマーシャルを憶えているのは団塊の世代である。当時は高度成長期のまっ只中にあり、このコピーは少し浮き上がっていたが、資本主義の終末を予感していて恐ろしい気がする。
東北大震災を契機にして(破壊された自然と空虚な心)から(豊かな自然と満ち足りた心)の時代にかわろうではないか!
嬉しい時や困った時は大きな声で叫び、自己表示をきちんとしようではないですか。