ブログ - 20111028のエントリ
このタイトルのような状況になった時、皆さんどうしますか?
こんな状況で身内や縁者がいない時どうしますか?交番に行ってお巡りさんに乞えば食費くらいは出してくれるかもしれませんが確信はできません。お寺に行って坊さんに頼みますか?どんな返事をするでしょうか、法事の時のビジネスには熱心な彼らが。キリスト教会に行ってパンの恵みを乞いますか?市役所の福祉課に行って生活保護の申請をしても認可されるまで何週間もかかるでしょう。
(健康で文化的な最低限度の生活を保障する)という人権・民主主義の世の中にあってこんな状況におちいればドロボーをするしかないのでしょうか?ドロボーをすれば逮捕され、警察官は仕事ととして評価されるでしょう。いや、評価されるためには恵んではいけないのではないか。役割分担としての職種が存在し、一方は逮捕する者、他方は逮捕される者なのであろう。
以上のことを想像すると私たちがいかに残酷な時代に生きているのかよくわかる。一昔前がすべて良いとは言わないが、(近代)および(西欧民主主義、人権主義)というものがいかに欺瞞的なのかよくわかる。(人類絶滅、地球崩壊)の根源は西欧の(人間中心主義、人権)にあることをはっきりさせるべき時代ではないか。人権があるというのなら、(動物権、植物権)がなぜないのだろうか?
レア仲間であれば余裕があれば食事くらいはおごってあげたい。不思議なことにそんな行為さえ奇異にとらえられる時代である。
現在、執筆中の小説(火炎)を書きながら、筆が止まってしまったことがあります。話が前後しますがこの作品は文学賞に投稿する予定でしたが、その前にこのHPに掲載するつもりです、一週間後くらいになるでしょうが。筆が止まったのは、不倫をしている主人公が愛人と別れて幸せな家庭に戻る、という一般常識に基づいたラストに私がとらわれてしまったからでした。そこで考え直しました。これでは私、作者の姿がみえないではないか!私、作者はいったいどんな人物なのか、それが伝わってこなければ作品にはならない。
そのことに思いつき、作品の出来不出来は別にして、俺は不倫の最中、たとえそれが破滅のベクトルにあっても引き返さない男、毒を食らえば皿までも、という男ではないかと思いつき、その方向に作品の中で(生きていきました)。そこで芸術家(わたしはそんな大それた者ではない)は自己自身を作品の中で生きる者である、ということがやっとわかった次第です。小説家の方からみればわかりきったことかもしれませんが、(大器晩成)?のわたしは還暦を5年もすぎてやっとわかった次第です。
もしあなたがインターホンを取ってこんな声が聞こえてきたらどうしますか?返事に困って黙り込み、インターホンを切りますか、それとも警察をよびますか?ところが昭和30年頃には、通りがかりの人がいきなりドアを叩いて、(ちょっと便所を貸してください)といって上がりこみ、大便をして(ありがとう)といって帰ることは普通だったのです。わたしは当時、6、7歳だったのですがこの事実を鮮明に憶えています。あれから50年がたったわけですがそんなことは信じられないでしょう?当時は(俺、失業したったい)といえば(おれんとこで飯でも食うていきない)と言って招くとか居候をするとか言うのは普通のことでした。トイレを貸してもらって居直り強盗になることもなかった。不思議ですね、それなりのモラルがきちんと成立していたのです。あれからすっかり日本は変ってしまった。良い方向だったか悪い方向だったのか議論はありますが、トイレを貸すような時代にはニートもヒキコモリもウツもなかったのですよ。旧体制の家父長制だの封建主義だの言論統制だのいろいろ批判はありますが、私達がグローバリズムという美名のもとで失ったものをもう一度考え直そうではないですか。
そんな世界を求めるのが(レア仲間)なのです。