ブログ - 201110のエントリ
博多駅の広場、そこで昼間からワン・カップを傾けていた爺ちゃんも白髪頭の太った婆ちゃんも消えてしまった。ホームレス達はいなくなり、設けられたベンチで常識人達が新聞を広げ、ケイタイを見ている。ブラザース・フォーの歌(花はどこへ行ったの?)をもじるわけではないが、(ホームレスはどこへ行ったの?)という言葉がおもいついた。たぶんボランティアや福祉関係の人に声をかけられて、バス・トイレつきのアパートで生活しているだろうが、かれらの消えた広場に寂しさを感じるのは私だけだろうか?放浪もふくめホームレスの生活には後ろめたさとともに自由への憧れがあり、優越意識をいだかせられることもあったが、階段でいえば一つの階がなくなったような喪失感をおぼえる。
昔、野良犬というのがいたが、今はほとんどみることはない。(野良犬)という言葉はなくなり歴史的に消え、わたしも10年後には消えている。
この言葉は貧乏だった学生のころ、ある学友が口にしたものです。わたしに糖尿病の気がある今、ダイエットしてて空腹を覚えるとき脳裏によみがえります。腹がへればへるほど、次にに食べるものは美味しく感じる、ということで、それはどんな料理にも勝るというわけです。(腹八部めに医者要らず)などと昔の人は言っていましたから、飽食の今の時代にもう一度大事にしたい言葉です。
わたしの大それた狙いはこのタイトルにあります。実際、私の人生と思考、感情は直線的なものではなく、矛盾対立、螺旋状、反転対称形など常識人がみればまさに狂っていたわけですが、量子力学における(スリット現象)や(シュレディンガーの猫)における(死んでもいるし、生きてもいる)などの現象をひもとくとその物質の世界と非常にマッチするのです。つまり、現代社会の秩序は直線的理論にもとづいていて必然的に破綻する運命にあるから、量子力学観点から再構成する必要があるのではないでしょうか?
60歳を過ぎてそんなことがわかりました。(元服)という言葉を知ってますか?奈良時代に12歳前後で成人した男子の儀式なのです。服装、髪型、名前を変えるわけですが、そこに切腹の作法が入っていたのです。つまり、その若さで(死)を教えるのです。現代人からみれば(なんと残酷な)と考えるかもしれませんが、(死)を教えることで(生)を教えたのです。世界的にも珍しい儀式です。
今は死んではいけない、苦しんではいけない、悩んではいけないという時代ですが、それは逆に生きることを否定してるようなものです。(死)の悩みがある程度解決できれば人生の悩みの大半はなくなります。(元服)の儀式に見られるようにまず(死ぬことも大事である)という考えをひきうけてみようではありませんか?
この前、宗像市のある団地を訪問しました。奥さんが出てきて、用件が終わると、長話を始めました。ご主人と二人で家の中にいて、ストレスがたまっていたのでしょう、こちらからたずねなくても話し続けるのです。わたしは自分の仕事が大変だというと、(あなたはでも歩けるじゃないですか。わたしの主人は脳出血を起こして体に障害が出て、両側からささえてもらわないと歩けないのですよ)と言い、その話をきいた私はその言葉に自分の立っている場所がわかりました。(近頃、時々膝が痛むことはあるが、ともかく歩ける)と考え、人と話すことで自分の姿が見えました。(うちのは主人は物が二つに見えるのです)(えー?)と不思議に思うと(ほら、この指があるでしょう)奥さんは人差し指を立てました。(ふつうの人は一本にしか見えないのですけど、わたしの主人は脳に障害があるので右目で一本、左目に一本、つまり二本に見えるのです)わたしはおどろいて言葉が出ませんでした。その主人の世界は二進法なのですね。一万円札も二万円なのですね。レアな世界ですが、それを絵に表現できたらすごい絵が出来るなと考えました。そうなると障害者ではなくて希少人というべきじゃないでしょうか?けっきょくこの世は多数派が健常者であり、少数派が障害者みたいな物の見方になっているのではないかと思います。