ブログ - nakamuraさんのエントリ

時間の観念、その不思議さ2

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-10-31 0:17

35年前の女は別れて以来一度もあっていない。わたしの心の中ではいつまでも25歳のままである。すこしも歳を取らず、頬の光沢を浮かべてわたしに笑いかけている。近くのオンナが白粉の下からシワを時々覗かせて離れるのとはちがう。

並列している時間なんてありえないし、それは時間ではなく空間かもしれない。時間の遠近、その秩序が乱れてしまえば時間という観念さえなくなってしまうであろう。狂人の仲間入りをすることになるだろうが、そこに真実があったとしたら?

少し怖い話になってしまいましたが、時々わたしは(また、今日が終わって明日が始まる)なんて思うと時間が憎らしくなってしまうことがあるのです。

みなさんはどうですか?

時間の観念、その不思議さ

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-10-30 22:52

35年前に付き合った女の顔がまざまざとよみがえる、数秒前に会って来たといわんばかりの鮮明さで。振られたがゆえに魅力を復活させているが、今どこに住んでいるのか、生きているかどうかも分からない。二度と会えないという絶望感が渇望をうんでいる。だが、近くにいるオンナは数秒前に会話をしたのに数百年前のような時間差、隔たりがあると言うより、存在さえ消えている。この矛盾は時間の観念に不審をうんでしまう。35年前と数秒前が逆転してるばかりでなく、35年前の女は生々しく生きているのに数秒前の女はユウレイ同様なのである。いったい、時間とは何なのであろうか?確かに時間を導入することにより、文明は発達し、信じられないような機器を生んできた。例えば、カメラ、テレビ、携帯電話なと持ち出せばきりがない。昔の人からみればこれらの機器の中には超能力が入っていると考えるであろう?

だが、もしかするとこれらの機器は人間が昔もっていたテレパシーを機械に切り替えたに過ぎず、テレパシーは自然の力の一つにすぎないのではなかろうか?

 

NHKで(助けを求めない孤独死)というような題で報道されたのは3年位前のことであった。30過ぎの青年であったが,職を失い食べるものがなくなって餓死してしまった。考え直してみると、(助けを求めないのではなく(助けを求めてはいけない社会)というべきではないか?困った時に友人や親兄弟、親戚、社会に助けを求めるのは恥であり、相手に迷惑をかけることなのである。たとえ、死にかけていても。これは極端な考えだと反論されるであろう。確かにその部分はあるが、その傾向があることは否めない。

日本は困ったとき、助けを求めてはいけない国なのであり、苛められたときも助けを求めてはいけない国なのである。これは(恥の文化)と密接に絡み、戦後60年たってもこの伝統は残っている。だから世界一の自殺者を生み、イジメ、セクハラが頻発するのである。

(馬車馬のように働いて得たものは破壊された自然と空虚な心、幸福とはなんだろう?)

このテレビのコマーシャルを憶えているのは団塊の世代である。当時は高度成長期のまっ只中にあり、このコピーは少し浮き上がっていたが、資本主義の終末を予感していて恐ろしい気がする。

東北大震災を契機にして(破壊された自然と空虚な心)から(豊かな自然と満ち足りた心)の時代にかわろうではないか!

嬉しい時や困った時は大きな声で叫び、自己表示をきちんとしようではないですか。

腹が減った、なにか食べさせてください!

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-10-28 23:33

このタイトルのような状況になった時、皆さんどうしますか?

こんな状況で身内や縁者がいない時どうしますか?交番に行ってお巡りさんに乞えば食費くらいは出してくれるかもしれませんが確信はできません。お寺に行って坊さんに頼みますか?どんな返事をするでしょうか、法事の時のビジネスには熱心な彼らが。キリスト教会に行ってパンの恵みを乞いますか?市役所の福祉課に行って生活保護の申請をしても認可されるまで何週間もかかるでしょう。

(健康で文化的な最低限度の生活を保障する)という人権・民主主義の世の中にあってこんな状況におちいればドロボーをするしかないのでしょうか?ドロボーをすれば逮捕され、警察官は仕事ととして評価されるでしょう。いや、評価されるためには恵んではいけないのではないか。役割分担としての職種が存在し、一方は逮捕する者、他方は逮捕される者なのであろう。

以上のことを想像すると私たちがいかに残酷な時代に生きているのかよくわかる。一昔前がすべて良いとは言わないが、(近代)および(西欧民主主義、人権主義)というものがいかに欺瞞的なのかよくわかる。(人類絶滅、地球崩壊)の根源は西欧の(人間中心主義、人権)にあることをはっきりさせるべき時代ではないか。人権があるというのなら、(動物権、植物権)がなぜないのだろうか?

レア仲間であれば余裕があれば食事くらいはおごってあげたい。不思議なことにそんな行為さえ奇異にとらえられる時代である。

本当の自分

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-10-28 22:55

現在、執筆中の小説(火炎)を書きながら、筆が止まってしまったことがあります。話が前後しますがこの作品は文学賞に投稿する予定でしたが、その前にこのHPに掲載するつもりです、一週間後くらいになるでしょうが。筆が止まったのは、不倫をしている主人公が愛人と別れて幸せな家庭に戻る、という一般常識に基づいたラストに私がとらわれてしまったからでした。そこで考え直しました。これでは私、作者の姿がみえないではないか!私、作者はいったいどんな人物なのか、それが伝わってこなければ作品にはならない。

そのことに思いつき、作品の出来不出来は別にして、俺は不倫の最中、たとえそれが破滅のベクトルにあっても引き返さない男、毒を食らえば皿までも、という男ではないかと思いつき、その方向に作品の中で(生きていきました)。そこで芸術家(わたしはそんな大それた者ではない)は自己自身を作品の中で生きる者である、ということがやっとわかった次第です。小説家の方からみればわかりきったことかもしれませんが、(大器晩成)?のわたしは還暦を5年もすぎてやっとわかった次第です。

もしあなたがインターホンを取ってこんな声が聞こえてきたらどうしますか?返事に困って黙り込み、インターホンを切りますか、それとも警察をよびますか?ところが昭和30年頃には、通りがかりの人がいきなりドアを叩いて、(ちょっと便所を貸してください)といって上がりこみ、大便をして(ありがとう)といって帰ることは普通だったのです。わたしは当時、6、7歳だったのですがこの事実を鮮明に憶えています。あれから50年がたったわけですがそんなことは信じられないでしょう?当時は(俺、失業したったい)といえば(おれんとこで飯でも食うていきない)と言って招くとか居候をするとか言うのは普通のことでした。トイレを貸してもらって居直り強盗になることもなかった。不思議ですね、それなりのモラルがきちんと成立していたのです。あれからすっかり日本は変ってしまった。良い方向だったか悪い方向だったのか議論はありますが、トイレを貸すような時代にはニートもヒキコモリもウツもなかったのですよ。旧体制の家父長制だの封建主義だの言論統制だのいろいろ批判はありますが、私達がグローバリズムという美名のもとで失ったものをもう一度考え直そうではないですか。

そんな世界を求めるのが(レア仲間)なのです。

 

一人では生きていけない

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-10-25 1:13

人は人に支えられて生きている、と言う言葉は若い頃に耳にしたことがあるが、実感したのは集金業を始めて15年後のことであった。会社が不祥事を起こし、不払いが広がった。行く先々で非難を浴びた。お前だって会社の手先だろう、と言われ、ドロボウみたいなことをしやがってよう俺んとこに来れたなあ、など日に二三度は浴びせられた。契約も集金を進まず、給料は下がった。だが馴染みの集金先はこういってくれた。(あんたあ、いろいろ言われて大変やろうけどあんたが悪いんやないけね。辞めんでがんばらなよ)その言葉が心にしみた。こんな私だってすべての人に非難されたら辞めたにちがいない。人は一人で生きているのではない。

いろんな職業があるがそれは社会の必要性からきているものである。(職業に貴賎はなし)という言葉があるがわたしはそれを信じる。集金先のアメリカ人が言った。あなたの仕事は会社の必要性があるから成り立っているのよ、スティーブ・ウオールという男であったが帰国したにちがいない。

期待されない人間像

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-10-22 22:46

およそ50年前、自民党中曽根内閣の頃、(期待される人間像)という言葉が政府から出たことを思い出した。私の教育ママはそのハシリで、政府の答申どうり一流大学、一流企業人にわたしを育てようとしたがみごとに失敗し、死ぬ前に(わたしは子供を育てる自信をなくした)と言う言葉を残した。私はなんとか大学を卒業(していると思うが卒業式にもでなかったので卒業証書もない)したが大卒にふさわしい仕事などしたこともない。自動車工場の季節労働者、交通誘導の警備員、キャバレーの客の呼び込み、などなど。母方の叔父などは(うちの親戚から集金人が出た)とまで言った。つまり私は(期待されない人間像)であったし、あるのである。この前は委託集金人の飲み会で、デブの老女から(あんたはみんなからアクが強いち言われるやろう)と言われた。(屁理屈屋のスケベ爺)とも言われた。

そこで私は(レア)なのである。肉食獣のDNAを持つ希少人なのであるが、世の中はすっかり草食獣たちに占められてしまった。

異端者の中からしか本物は出ない。本物であろうがなかろうが私は自分が常識人になるために削り落としていったものを探し出し、もういちど手の平の上にのせて眺め、作品にしててみたいとおもう。

 

落差がエネルギーを産む

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-10-20 20:56

アメリカやギリシャ、アフリカで格差社会に対するデモが起こっている。アメリカなどは1パーセントの者が20パーセントの富を握っている、という事実に対して失業中の若者達が怒っている。新聞は一面トップで掲載し、民主主義がじつはは王侯貴族と奴隷に近い格差を生んでいるという本質をあらわにしはじめた。これまで(ハッピイ、幸せ)ムードで幼児からマインドコントロールしてきた社会の化けの皮がはがれてきたのである。これをレアは不公平是正の運動とするより、この格差、落差が物理化学的にエネルギーを産む(重力の法則)ととらえる。今まで金持ちが吸い上げてきた金が重くなり、下に落ちていくわけである。じゅうぶんに落ちて均衡化すると次は(持てるもの)と(持たざるもの)のちがいと落差ができて天秤棒が傾き、抗議行動、暴動、戦争が起こる。

戦争は良い悪いではかれるものではなく、物理化学的反応にしかすぎない。

ホームレスはどこへ行ったの?

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-10-20 20:31

博多駅の広場、そこで昼間からワン・カップを傾けていた爺ちゃんも白髪頭の太った婆ちゃんも消えてしまった。ホームレス達はいなくなり、設けられたベンチで常識人達が新聞を広げ、ケイタイを見ている。ブラザース・フォーの歌(花はどこへ行ったの?)をもじるわけではないが、(ホームレスはどこへ行ったの?)という言葉がおもいついた。たぶんボランティアや福祉関係の人に声をかけられて、バス・トイレつきのアパートで生活しているだろうが、かれらの消えた広場に寂しさを感じるのは私だけだろうか?放浪もふくめホームレスの生活には後ろめたさとともに自由への憧れがあり、優越意識をいだかせられることもあったが、階段でいえば一つの階がなくなったような喪失感をおぼえる。

昔、野良犬というのがいたが、今はほとんどみることはない。(野良犬)という言葉はなくなり歴史的に消え、わたしも10年後には消えている。

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