ブログ - 日記カテゴリのエントリ
一週間前、部屋の出入り口に置いていたサンダルが片方、無くなっていた。犬は飼っていないから野良犬がくわえていったのか?と、考えていると、昨日は、作業用の靴の片方が消えていた。また、やられたか?持っていかれるのではないか?と思っていつも履く靴は部屋の中に置くようにした。東北では人が何人も熊に襲われる事件が後を絶たない。昆虫の数が四十年前の千分の一にまで減り、栗、梅、キュウイ、柿、ビワなどすべての果実のサイズが以前の半分ほどになり、収穫量も激減している。熊は食べ物がなくなって人を襲い、餌にするしかなくなった。恐ろしいことである。うちの庭の甘柿は昨年からカラスに食われるようになった。集団でやってくるのだから、数十分のうちに一本の木を平らげてしまう。
この流れは酷暑が原因であり、人が快適さのためにエアコンを使い自然破壊をするからである。そのことを反省して生活しなければ、そのうちカラスが人を襲うようになる。部屋の中で弱っている老人を狙い、私も対象になるであろうが。ヒッチコックの(鳥)という映画が四十年前に上映されたが、鳥が人を襲う内容であった。まさにそのことが現実化されようとしているのである。
毎週、ほぼ十年間、教会の日曜礼拝に通い、キリスト教と神の存在がかなりわかってきた。先週は神父から洗礼を受けないか?と言われたが、過去の出来事があって、断った。以前、通っていた教会の信者から誘いを受けた時、洗礼を受けたらどのようになるのですか?とたずねると、答えはなく洗礼を終えて、献金の封筒が四枚渡されたのであった。生活が苦しいといつも言っている者にそんなことをするなんて許せず、脱会したのであった。さらに、そこの雰囲気は金持ちのサロンというものでもあった。
今は、わたしは自分の畑でとれたものを信者に売ってそれ献金をしているので、金を出すことはない。いつまでも研修生のつもりで勉強していたいと思う。
以前から思考を重ねていたのであるが、神とは本人は変化せず、まわりの者を変える触媒ではないか?と、思う。神は地上で最大のエネルギーを持っていて、すべての生命に生きる力をあたえているのではないか?地球の回転力がすごいエネルギーをを産み、原動力になっており、誰も逆らうことができない。
物理学で、E₌MGと言われ、Mとは質量であり、Gは定数であるので地上で最大の質量を持つものは地球そのものである。それが最大のエネルギーを産んでいて、全知全能者として神を設定しなければ方程式は仮定法を使っても解けはしない。誰も神の正体を掴んだものはおらず、わたしが挑戦してみたいと思い、さらに、自分なりの聖書を書いてみたいとも思っている。
神とサタンは裏表であり、重なり合っている。対立物がいなければどちらも存在しえない。シュレディンガーの猫のように生きてもいるし死んでもいるのであり、善悪の判断はできないのである。
俳句です。
俳句です。
毎週、要介護の老人たちに弁当を届けているが、先週の水曜日、Aさんの家に行って弁当を差し出すと、紙にプリンした短歌を持ってきてくれた。なんとそれはわたしが今月の町報に投稿したものであった。彼は感動したと言い、這ふて、の旧仮名遣いの部分を指摘したのでわたしも旧仮名遣いは情緒があって良い、と答えた。彼は九十歳でありながら、いつも百坪ほどの庭の手入れをしていて、元気である。庭にはしだれ梅の木が生え、曼殊沙華が黄色い花を見せていたが、草は一本も生えておらず、彼の誠実さがうかがえた。だが、十年前に家が三度も不審火に会い、近所の男に放火されたと思い、悩み続けていたのである。その内容を紙にプリントして、配っている。
家族が自分を大事にしてくれるといい、いつもおだやかな顔をしている。
自分はひとりぽっちであるが、日ごろの生活を見回してみると、句が浮かび、毎日、作っていて、それが一日の支えみたいなものである。体が老衰して動かなくなっても、頭さえしっかりしておれば、描けるのである。小説を書くのは大変であるが、日常生活の描写はスケッチみたいなもので書くのは楽しい。ユーチューブからも私の句が高評価を受けていると、突然メールが来たこともある。
あの世に行く前に、辞世の句として出してみたい。
酷暑が去り、体調がだいぶ良くなった。今日は小雨の一日であったが、まず十年前まで住んでいた家に行った。空き地になっていて、地主から草刈りを任されている土地である。入り口に立っている渋柿の実を見ると、一か月前と変わらずいつもの半分くらいの大きさであった。今年は酷暑のせいで栗、レモン、カボス、イチジク、すべての発育が悪く、この状態が続けば米、野菜に打撃を与えそうであった。とりあえず、二か月先の収穫を考えて、竹棒を用意しようと思い、近くの山に行き、二本ほど鋸で切り、自宅の甘柿をとってみたが、やはり小さかった。
スマフォで株価を見ると、今日も下がっていた。一割の損失であった。それから残金のことを考え始め、鬱になっていった。屋敷と散歩道との垣根に密集しているヤブカラシや小竹を刈り取ろうとするがひどくはびこっていて、思うように進まない。いらいらしながらも鬱がつづき、老人ホームにでも入る?と言われた言葉を思い出し、(おれはどうやって死ぬんやろうねえ?)と心配しながら、死ぬのが怖くて自殺した老人のことを思い出した。
ますます鬱になっていったが、夕食のことを考え、白ご飯、キムチ、ウインナーと卵の炒め、辛子ナスで夕食をとった。美味しかった。すると、少しずつ元気が出てきて、鬱は吹っ飛んでしまった。
そこで考えついた。
どうやって死ぬのか?なんて考えてもわかりはしないのである。おれは心不全か脳梗塞で死ぬ可能性が高いが実際その時になってみなければわからないし、交通事故で死ぬかもしれないじゃないか?殺さされるかもしれないじゃないか?
と考えながら、またスマフォを開いて、株価、メール、ニュース、レア仲間の閲覧者数、ユーチューブ、ラインなどを見ている・・・。そこで考えた。情報を見すぎるのである。ネットにはほとんど何でも載っているし、わからないことは無い。すごく便利で退屈はしないのだが、それがいけないのである。知ってはいけないことまで知ってしまう。
知らぬが仏、という言葉があったではないか?
知らないことも大事なことなのである。
長引くウクライナ戦争には皆、うんざりしている。教会の古い女信者からさえも、プーチンを殺せないのか?というつぶやきがもれ、驚いた。そこまで追い詰められているのである。三年以上も戦い続け、数百万人の犠牲者を出し、土地を破壊し続けながら解決の兆しは見えない。ロシアは十分の一ほどの領土を奪いながら、国自体が疲弊し、国民はガソリン不足のために四十分もスタンドの前で待たされている。無駄な戦争のためにガソリンが使われているためである。このまま進めば耕運機のガソリンもなくなり、食べ物も消えてしまうだろう。停戦の話し合いの場を持とうとしながらもプーチンはぬらりくらりとしている。
さきほどの女信者の言葉に共感してしまうが、プーチンの立場もわかってきた。停戦にすれば帰還兵が国に戻り、国民に考える余裕を与え、戦争経済が回らなくなり、反乱が起こり、政権が崩壊するからである。が、戦争を続けても経済制裁で国がつぶれてしまう。どちらに行っても崩壊しかない・・・・。
なんという状況であろうか?
怖くなってしまう。人類以外で、相手が滅びるまで、共食いをする生物なんてほとんどいない、人間とは自分とはこんな生物だったのか?と、言葉を失ってしまう。
神の登場を待つしかない。
汝の敵を愛せよ・・・・。
十年前、近所の親しい男から、あんた、ホームレスみたいやね、と言われ、腹を立てて口を利かなくなった。コイン精米機の小屋に行って、ぬかをこすぎ取り、売って生活をしているといった時であった。また、精米所に行ってもみ殻を取り、売ってもいた。わずかな収入であったが貴重な収入であった。ところが、今年の夏はもみ殻の売れ行きが悪く、一日に一袋しか売れなくなっていたし、直売所に行ってみると、返品の札が二袋に貼ってあり、店員に聴くと虫が入っていて苦情がでたという。酷暑の折、畑を耕す者もおらず、埃だらけの精米所でもみ殻を掬い取って袋に詰めることにうんざりしていた。
それで、二か月ほど、取らず、放置していた。
すると、昨日、店から電話があり、お客さんがもみ殻を欲しがっているという。半ばいやいやながら起き上がり、コイン精米機にポンコツ車で行った。すると、45リットルの袋に四袋のぬかが採れた。それと虫の入っていたもみ殻から虫を取り除いて、六袋ほど店に出した。それを終えると店のそばにあるいつもの精米所に行ってみた。、二か月前にはからであった倉庫にもみ殻が山積みされていた。マスクをはめて十袋ほど採り、店に戻って四袋置いてきた。お客さんがぬかがない、って言ってましたよ、と女店員が言った。これで当分は間に合うよ、と返事をしてやった。
先ほど、ネットのニュースを見てみると、老男が食料品店の倉庫に入り、ブドウや桃を盗って、逮捕されたと出ていた。
我が身を思い返して、独り笑いをした・・・。
酷暑が去り、朝夕、少しは涼しくなった。この夏、室温が三十八度の生活に老骨が耐えたことは褒められていいことである。七百坪の敷地の草刈りは何とか進み、一巡しそうである。次には、二か月前に刈った場所をまた刈らねばならない。それが終われば正月に備えての木の枝の伐採が待っている。豪邸に住んでいる、と言われても農作業者にすぎない。
虫の数がめっきり減った。四十年前と比較すれば自分の周りから絶滅したのも多い。カミキリムシは一匹もみなかったし、ゴミムシ、ハンミョウ、マイマイカブリなどは一匹も見なかった。夏には親指ほどの幼虫がうろついているはずであったが一匹も見なかった。
それに引き換え、セミや蜘蛛は健全である。直接、地面と接触しない生活なので農薬から身を守ったのであろう。草刈りをしていると、蜘蛛の巣に顔をふさがれることが多い。考えてみると、必ず、目線とぶつかるのである。蜘蛛はどの高さで人が歩き、そこに蚊やぶよが寄ってくることを知っている。それに巣の張り方は匠と言われるほど精緻である。誰に教えられたわけでもなく、DNAに従っているのであろうが、神業でもある。一本の基線は風に垂らして枝に寄せ、絡みついた縦線から決めていき、基線は三十本も張って、横糸を千本近くもつないでいく、一日では完成しない大作業である。それをもくもくと続けるのである。人間顔負けでくある。オスはメスの百分の一も小さく、網は張らず、かかった餌を食い、交尾する。
雨の降った後など、巣を見ると、まるで銀河のように輝いている。神の作った宇宙を見る想いになる。人からは無視された生き物が細々と生きていることに心が打たれる。自分だって、その一匹にすぎない。
昨日、ユーチューブを見ていると、路上でパーフォーマンスをするドイツ人の論議が行われていた。若い男で世界をめぐりながら、路上で逆立ちを何度も行って観客の目を引き、彼が作っているズボンの販売の宣伝をしているという。許可も取らずにあちこちでやり、彼は自己PRを面白がっている。
わたしは興味をもってみていたが、そこで迷惑になるからしないほうが良い、という言葉が出たので、近ごろの報道の仕方に疑問を持った。元気があって良いし、自己主張をすることには良いことだと思っていた。彼は迷惑が掛からないようにやっていると言い、それで世界を一周しているのである。人は若いころがどうしても基準になるのであろうがわたしは昭和四十年の頃を振り返る。今とは、段違いであったことにいつも気づく。駅のホームにはたばこの吸いがらやつばが散乱し、吸い殻入れからは燃え残りのたばこが煙をもうもうと吐き出していた。町の街路樹の下では酔っ払いが寝、髪やひげを伸ばした男が腰を下ろして、目の前に茶碗を置いて投げ銭を待っていた。それが風俗の一つなのであった。今の時代、日本が良いといって訪日客が押し寄せ、路上にはゴミ一つない、と称賛している。マスコミはそれを書き立てるが、若者の自殺率が世界一であること、農薬の使用量も世界一であることには触れない。
路上にゴミ一つ落ちておらず、枯葉もゴミとして処理され、自然の一つとしては理解されない。その息苦しさが若者たちを自殺に追いやり、エアコンの奨励をして、ますます酷暑をあおっている。
破れや風穴を理解できない社会なのである。
風穴があれば風が通り、破裂もいないはずである。
