ブログ - 最新エントリー
現実の生活では端役でしかないのに、夢の中ではいつも主人公である。だからどんな夢を見ても楽しい。責任感からも常識からも解放され、自由きままに夢世界で活動し、観客にもなれる。時々自分が社会生活では秘密にしていることが飛び出す意外性もあってドラマを楽しくしてくれる。あるいは人間関係の微妙な部分(ある人とは気が合わない雰囲気など)なども再現し、夢は小説より奇なり、である。
若い頃は女とセックスしている夢、また空手同好会でリンチを受けた悪夢ばかりであったが、居住地や加齢とともに内容も変わっていく。東京で生活していた頃は故郷の小川で魚を網でとる夢が多かったが、帰郷してからは相模原市のボロアパートで暮らし、隣室に越して来た子連れ女との生活に変わった。
近頃は夢の上映会数もすっかり減ったがそれでも二三日に一度は、見るし、追体験をする。見知らぬ土地に行って、安っぽい部屋のベニヤ板壁や初めての仕事への不安など、昔の出稼ぎ生活を記憶の下層に残しているのがわかる。幼児の頃は、隣の家の女の幼児とお医者さんごっこをよくしていたので、夢の中で隣の家に入り、その子と抱き合う場面を想像しながら夢の中で実行し、射精をした。そんなことがたびたびあった。夢を作り、夢の中で主演したのだ。それがで出来れば良いな!と思うが今では寝る前に色んな女と抱き合うことを想像するだけである。
今回の出来事は私にとって今年の三悪事の一つになったかもしれなかったが、わたしはうまく切り抜けた。きっかけはわたしが二年前にA男の借家の連帯保証人になったことだった。A男はわたしとNHKとの委託契約の連帯保証人になってくれたので、わたしは頼まれると断れなかった。A男の妻のA子はスナックを経営していて、店のホステスの借金の連帯保証人になり、ホステスは夜逃げし、A子は借金を背負わされた。スナックの経営で何とか家賃を払ってきたが、重度の糖尿病にかかり、医者通いを続け、店をたたんでしまった。家賃を払えなくなった。
不動産屋の社長は家賃の請求をA男にしたが、A男は下手に出ることを知らず、口喧嘩をしてしまった。6か月分の家賃(42万円)がたまっていた。t社長はわたしに支払い督促状を送ってきた。2度、3度と送ってき、最後は簡易裁判所から払うか、異議申し立てをするかと、文書が来た。わたしはA男は12月に滞納分をすべて払うと言い、現在の月の家賃は払っているので、支払いの意思があるのに私が払わされるのは納得できない、と異議申し立てをした。内心はA子が何とかするだろう、ここでわたしが払うと、他の借金もあるA子は返さないと考えた。
A子はわたしが被告席に座らせられるかもしれないと心配し、夜も眠れなくなった。知人に土下座して金を借り、滞納分を払ったが、告訴の取り下げもなく、不動産屋から払ってもらったという返事もなかった。このままいけば30日に公判が開かれるのか?と考えた。被告席に座ることも経験になるとたかをくくっていたが、A子が案じる電話をしきりに入れてくるので不動産屋の社長に電話を入れた。ぞんざいな口調だった。(わたしはA男に代わって持ち主に家賃を払ってきた。あなたは私に金を借りていながら返しもせず、逆に異議申し立てという形で訴えているのと同じなのだ)彼は言った。
わたしは彼の心境を察していたので、三度、詫びた。告訴を下げてもらいたいのでしょう?彼は言い、わたしは、そうです、と言った。こちらも裁判に出たくはないので告訴は取り下げる、と彼は応えた。
これで片が付き、わたしは一円も払わなかったわけで、作戦通りに決着がついた。わたしの謝罪を社長は待っていたのだし、わたしもそれに感づいていたが、(負けた)振りをして実は勝ったのであった。(勝つことばかり知りて負くることを知らざれば害その身に至る)とは、徳川家康の言葉である。
今日は遠賀郡・障害者の会、その理事会に参加した。わたしは心臓バイパス手術をして障害者4級であり、どもりでもある。精神科医の問診を受ければ情緒不安定、躁鬱病、色キチガイ、深刻症など様々なネーミングが待っているであろう。
理事会の場では旅行や演芸会の打ち合わせが行われ、会員が年々減っていると会長が話した。最後に意見・要望の場になった。わたしは先日の障害者の体育祭がすごく活気があり、もっと広報活動に力を入れるべきである。新聞社に取材させたり、町報にイベントの参加を呼び掛けたり、会員にニュースを配布したりすべきではないか?すでに障害者は特殊な立場に置かれてはいない、と言った。そこで、すでに人類自体が障害者になってしまっているのではないか?と考えた。冷暖房設備がなければ生きていけない、汚いものは排除しなければならない、除草剤を播いたり生活排水を汚染すればどうなるかがわからない、利便歳が自然破壊に通じてることがわからない、自然を破壊することが人類を含め生物の破壊になってることがわからない。地球上で自然破壊をしてるのは人間だけである。野生動物の視点から見れば人間こそが有害獣であり、害虫なのである。
わたしもその一員である。出来るだけ自然に近い生活をし、自然破壊を少しでも減らすことを訴えてはいるが。
現在、700坪の敷地に住んでいる。そこには色んな木々や草、花、野菜が毎年、花を咲かせ、実をつけてくれる。ほとんどのものの名前がわかっているがわたしがまったく関心を持たず、放置したり刈ったりしてたものがあった。その一つに興味を持って調べてみると絶滅危惧植物であった。広葉の甘菜(ヒロハノアマナ)と言う学名であった。雑草みたいで20センチほどの高さしかないが、あちこちに生えていた。園芸店に行って調べてもらい、ネットを見てやっとわかった。球根は小指ほどの大きさであるが一粒500円の値がついていた。
産直店やネットで売りに出してみよう、と思うが、何故、絶滅危惧種なのか?と考えると、たぶん人気がない(白い花を咲かせると載っているが見たことはない)、繁殖力が弱いという理由が想像出来る。
まさに私のことではないか?
つまり、わたしも絶滅危惧種のひとつであり、その植物と同居してたということである。(笑い!)
一昨日の日曜日、遠賀町の体育館で障害者の体育祭があった。岡垣、遠賀、水巻、芦屋の四町村の連合した催しであり、毎年行っている。13種の競技があり、すごく楽しく面白かった。一つ一つの競技の様子を書くときりがないので一つだけ、書いてみよう。車椅子競争、と言うのがあって四町のグループに分かれ、車椅子の乗ってグランドを走り、次の選手にタッチして速さを競うのであった。わたしは肢体に障害はなく、心臓の活動が少し弱いハンディなので車椅子にはあまり乗ったことがない。15人のうち肢体不自由者は3人いていつも車椅子に乗っていた。
競技が始まった。
車椅子で走るのは難しくないが、コーナーを曲がるのが難しい。左腕の動きを止めて右腕で車輪を回さなければならない。わたしのグループは二位であったが、最後の走者は車椅子常用者の男であった。コーナ?を回り、直線コースに入った。彼はすごい勢いで走り、日ごろ車椅子を使わない男を抜いたのであった。
彼の生き生きした表情と活気が印象的であった。こうなると車椅子に頼っているのではなく、車椅子使用の世界では優秀ということになる。ここに真実が隠されている。障害者と呼ばれてはいるが実は一般人の持たない特殊能力を持っているということであり、社会自体がこのことに気づかなければならない。
昨日は俳句の会に行った。
ニンジンの種を播こうと考え、畑を耕していたが、膝に鈍痛を感じ、少し鬱になっていた。人に会えば元気が出るだろうと期待して行ったわけであった。
公民館の一室で行われるのだが、11人の80歳ちかい男女が集まっていた。今月、作った七つの句を出して合評しあう場になった。自分の出した句がどのように判定されるか不安と期待に混じる時間だ。
(野晒の死蝉を包む朝の雨)というわたしの句が俎上に載せられた時、女先生は頭をひねりながら、(死蝉ではなく、落ち蝉)と言った。わたしは初めて耳にするその言葉に驚き、考え込んだ。
最終的に、
(落ち蝉の骸を包む朝の雨)
と言う句に先生が更生してくれた。
わたしは日常生活にはない句が俳句の世界にたくさんあることを知って、日本語、日本文化を改めて考えさせられ、素晴らしいと思った。同時に退職して貧しい年金暮らしの自分の人生がまさに(落ち蝉)であることに気づいて、苦笑したのだった。
ほとんど毎日、山歩きをしているので、珍しいものには出会わなくなった。と思っていたら、あれは何なのか?、と思いつく光景を思い出した。山道の真ん中、ほぼ自分の顔が当たるところに一枚の葉が垂れ、一本の蜘蛛の糸にぶら下がり、風に揺れたり回ったりしている光景であった。蜘蛛の網にはよく出会うので無関心であったが、あれは何なのか?と考えてしまった。蜘蛛の仕業には違いないがなんの為なのであろうか?
わたしの結論は蜘蛛が網を張る前に風向きや風の力を調べているに違いない、と言うことであった。それを知っていなければ効果的な張り方は出来ない。蝶や蝉、トンボなどは風向きを知った上で色んな飛び方をするわけだから、それを知ることは網にかかるかどうか判断する上で大事なことである。たかが蜘蛛であるけど、生きることに調査・研究をする学者でもあるのだ。
すべての生き物がそうである。どんな人間もしかりである。
69歳の老男になっていろいろ考えることがあるが、その中のひとつは青春時代にほとんど人生観の価値基準が出来ていたということだ。学生運動や革命思想に感化されたあの多感な青春、それを東京という日本の中心で過ごしたことは計り知れない影響をわたしに与えてくれた。普通の学生であれば大学を卒業して就職し、社会人になっていったのにわたしは10年間ほども学生時代を延長し、アルバイトをしながらその価値基準で社会・政治・人間・自己を観察・分析し続けたし、今もそうである。だからほとんどのひとから、変わり者、と言われる。
まわりを見回すとそんな男はもうおらず、俗物生活を過ごし、楽しい生活をして長生きしよう、と言う者がほとんどである。わたしは彼らが劣等で自分が純粋だとか立派だなどとは全く思わないが、自分みたいな男がもう少しは残っていてても良いのではないか、と思う。
今の時代を単純に言ってしまえば、未来よりも今の経済生活を少しでも楽しくやっていければ良い、ということである。それは私だってそうなのであるが、それが負の遺産になり若い者達に残すことに罪を感じる。わたしが戦争から引き揚げてきた父に考えていたのは、なぜ、戦争反対を叫ばなかったか!と言うことであったが、わたしも、何故、あの時未来のことを考えてくれなかったか!と若者達追及されそうな気がする。だから、せめてこのホーム・ぺージで訴えたい。
わたしは過去に付き合った女のことを時々思い出す。あの女と一緒になれてたらなあ、でも彼女は男好きだったから浮気されて離婚したかも、あんな自己中心的な女といっしょになっても長続きしていない、こんな俺なんか嫌われたかも、などと想像がわくが、実際はどうなったかわからない。人間の心、特に男女の心理なんて永遠の謎に近いものである。
普通の結婚は終身を前提にしているが労働形態は個人委託契約、有期性、代理店、特約店など様々である。結婚は子供ができて家系を継ぐことなど労働の世界とは大きく異なるが、貞操観念のほぼなくなった現代では従来の結婚形態は通用しにくくなっている。不倫に抵抗感を持つ女は減っているのに終身の結婚制度、一夫一婦制にこだわっているのは時代に適用しない。また、性同一障害など性の複雑な側面も現結婚体制では追いつかない。
わたしは会社と個人の委託契約で働き、三年に一度契約更新をして働いた。働く側にとっては不利であったが、これを結婚に適用してみてはどうかと思う。実際に契約結婚をしてる例もあり、公序良俗に反しない限り法的には問題がない。生活費のこと、結婚期間、浮気、子供の教育など事前に文書で交えるほうが後々、トラブルは発生しにくいと考える。
(契約結婚してみない?)などと切り出せば、変な顔をされ、わたしを愛してないのね!などと反発を食うかもしれないが、再婚や高齢者の場合は書面を交わし、契約結婚にした方が効果的だと思う。
わたしは家庭菜園での野菜作りを30年間、それに昆虫採集、自然観察を30年以上してきましたが、今年の春からの異常事態に神経質になっています。今年はほとんどの農家の玉ねぎがカビの病気にかかり、玉のサイズが健康時の10分の1くらいで、価格が一個100円になった日がありました。ジャガイモの男爵には酢が入り、硬くなって食べられませんでした。ビワは寒気にあってほぼ全滅でした。柿は暑気が続きすぎて虫に食われ全滅でした。
今月の初めにネギ、ホウレンソウ、春菊、インゲン豆などの種を播きましたが、芽が出ず、雑草ばかりが茂っています。4、5年前からこんな状態です。20年前にはそんなことはまったくありませんでした。昆虫の量も100分の1以上減っています。
スーパー・マーケットは全国から仕入れるので野菜の量は十分あるようですが、産直店は地元の農家が出しているので生育が悪ければ出荷がすぐに減ります。わたしが時々出荷してる産直店に開店前に行くと野菜が籠からはみ出すほど入荷されていたのですが、今はその半分くらいしか集まらず、出荷する農家を募集しています。
この流れが続く予感がします。野菜が採れなくなれば牛や豚も育たず、自然界の食物連鎖の秩序が崩れ、自然崩壊です。人間界も崩壊です。崩れた秩序は復元出来ません。機械であれば修理が利きますが、自然と言う計り知れぬ世界は修理は利きません。
田んぼを見てください。綺麗でしょう?雑草が一本も生えず、ゲンゴロウもドジョウもタニシもいないでしょう?
どうしたのでしょうか?
除草剤、農薬に殺されたのです。稲には害がない、なんては言えません。DNAに悪い変化が起き、人間のDNAにも悪い影響を与えるに違いありません。
この点を学校教育でもマスコミも取り上げないのは不思議です。