ブログ - 最新エントリー
私の周りには女と友達関係だけで付き合ってる者がかなりいる。が、わたしは性関係なしに付き合ったことは趣味仲間・親戚以外にはない。女と友達として付き合ってどこが良いのか?男友達とくらべてどこがちがうのかわからない。女の考え方、趣味、感性などわかり、男とは違う世界があることはわかるがその程度であれば友達にならなくてもわかる。
女は細かいことにもよく気がつくが、すごく鈍感な部分もある。夫婦として個性を認め合いながら暮らすのは良いし、一夫一婦制の利点はそこにある。男が金を稼ぎ、女が男の身の回りの世話をやき、子育てをするというのは相互扶助の良い形である。その場合、役割が逆であっても良い。女にも色んなタイプがあるがわたしの知ってるKさんは妻と死別し、80歳で一人住まいであるが、女はもう諦めたと言う。わたしがある女を再婚相手として紹介したい、と言ったことがあったが彼は笑ってるだけで返事をしなかった。ある時、彼はわたしに次のように言ったのが印象に残っている。女は過去の男と自分を比較し、あの男はこうだった、など平気で話すからもう相手にしたくないと言う。
その言葉はわたしにすごく理解出来た。ほとんどの女は過去の男との出来事を平気で話し、現在の男の前で品定めをしてることに鈍感である。男でそんなことをする者は稀である。男は女の感情を害することを知ってるからであるが、女にはこの気配り、繊細さがない。
夫と10年前に死別し、男漁りをしている老女がいる。熱しやすく冷めやすいタイプである。男にすぐに惚れるが、性交渉を持った時には飽き、欠点を探す。男の側は本気になっているが相手にされず、ストーカーになる。女は手の平を返していて、次の男を探している。71歳で子供三人、孫6人持っているが死ぬまで男漁りを続けそうである。彼女の場合,性の不一致もある。すぐに逝ってしまい、再びやる気がなくなる。性格の一致は性の一致でもある。
相模原の障害者殺傷事件のことが朝刊に書いてあったが、この事件は多くの問題提起をしている。犯人は殺傷することで障害者を介護する人達を助けて苦痛を減らし、障害者の死を(介錯)してやるようなことを述べている。現代の人権制度の矛盾をついている。
障害者は一つの個性であり、健常者の社会での異種混合と捉えるべきではないか?ニグロ、という言葉は差別用語になり今は使われておらず、ブラックという言葉に変わっている。白人たちは色の白いことが正常だと思うがアフリカに行けば色の黒いことが正常なのである。どちらが多数であるかによって正常と異常の区別・差別が起こる。
わたしはドモリという障害者であるが、肉体労働、集金、営業の仕事をして、自力で稼ぎ生きてきた。障害者という劣等感は学校時代にはあったが世間に出て克服してきた。この点からみると、障害者とは肉体や精神にハンディがあることが理由ではなく、自力で稼ぎ生きていけるかどうかではないかと考える。色盲や身体・精神障害者という区分は多数派の価値基準であって、半数以上が障害者になったとすれば健常者の方が障害者になってしまうであろう。見えないはずの者や物が見え、聞こえるはずのない声や音が聞こえるとなると妄想患者と呼ばれるように。
この点から障害者への捉え方を変えなければならない。
心を自然の一部、つまり天気模様に例えるとよくわかる。美容整形をしたとして、(秋晴れの爽やかな青空)のような心にしてみたとしよう。世の中にはそんな顔つきの人がいる。顔そのものが笑顔で優しい。ところが心の中は異なり、相手を疑っていたり悪意を持っていたりする場合がある。確かに(秋晴れの爽やかな青空)の心であれば心理的にも楽しいし、物事も客観的・楽天的に見える。同時にそれが油断になる場合があり、天候も急変して雨・雷に変わる場合があり、備えのない楽天家は傘の用意もなくびしょ濡れになる。
心が曇り模様であれば雨に備えて傘を持つことになる。雨に濡れなくてすむ。
顔の整形美容をした人は老顔になることへの備えがなく、年取って皺が寄り醜い顔になってる場合もある。その時はまたお尻の皮膚を顔に付けたりしてやり直すであろうが。
心は天気模様と同じように晴れたり曇ったり雨になったりすることで、(晴れ)のすがすがしさもわかるのであって美容整形など必要がないし、意味がないということである。
一部の人達、被害妄想にかかっていつも人の動きを猜疑心で見て間違った判断をする人や南極・北極の天気みたいに冷酷な気持ちで他者を見る人は心の美容整形が必要かもしれない。(ペース・メーカー)の代わりに人工知能による(ハート・メーカー)が必要であろう。すると自分の心がどんな間違った判断をしていたかが良くわかる。
人間は心を持っているから、私など、俳句の会やカラオケ教室、英会話教室、障害者のグランドゴルフに通い、すごく楽しい思いをさせてもらっている。人間であることの有難さを感じる。
先週の英会話教室では講師のテュリンが人工知能について話をし、スライドにマネキン人形みたいな女性が出て日常会話をしていた。ミス・テュリンは24歳の女性でオーストラリア人であるが、英会話学院の講師をしていたと言い、授業ではほとんど英語でしゃべり、この言葉は理解できないだろう、と予想する場合にのみ日本語を使い、教え方が抜群に上手である。(スタンリー・キュウブリックの2001年宇宙の旅というい映画は知ってるか?)(人工知能に心は持てるか?)など私は質問し、おおいに興味を持った。
そこで私は自分の心を厄介さを抱いていたのだ。
人生には良いことも悪いこともない、と言いながら今年は最悪の年であった。株式取引で大損をし、遠出が出来ず町の中をうろつくだけ、家の賃貸契約の連帯保証人になっていて借主が家賃を払えず、不動産屋や簡易裁判所から督促、呼び出しがかかったこと、付き合ってた女から裏切られたことなどであるがそれらを通して自分の心の頼りなさ、利己的さをうんざりするほど思い知らされた。生きる気もなくなっていた。
わたしは自分の心が嫌になり、すごい自己嫌悪に陥っていたのだ。だから顔を整形するように心も美容整形出来れば嬉しいと考えたわけだ。こんな願望を持つ者は私だけではないはずであるから、新興宗教が次々と現れる流れにのって、(心の美容整形)業が出来るであろう。
十件前のブログ(愛がないからセックス出来る)に戻ってみよう。そこでは、あなたが好き、あなたは彼氏、愛人と女から言われていた男が女からの告白を受け、ショックを受けてウツになった出来事を書いている。わたしはそのことについてずっと考えていた。結論が出なかった。
だいたいわかってきた。
誤解とリップ・サービスである。女が男に好きだと言った場合、ほとんどの男は(愛してるんだな)と受け止めるし、逆に男が女に好きだと言った場合は(愛してる)ということである。ところが女は好意を持っているだけの場合でも(好き)と言い、男は愛されていると信じる。
(愛がないからセックス出来る)に登場する女はともかく男好きの女で、出会った男のほとんどには名刺を渡す。紹介販売をしてる会社の名前、ケイタイの番号、住所が入っている。旦那と死別した後には4,5人の男と性関係を持っている。ただ彼女は熱しやすく冷めやすいタイプであり、行為を1、2回して、男がまた会いたい、と想う頃には心が冷めて、あの男はケチだとか強引すぎるとかあら探しをして男から離れようとするが男はすっかり燃え上がっている。彼女は男にもう付き合わないでくれ、と言い、男は彼女の家の周りをうろついたりしてストーカーになる。3件ほどそのケースがあった。
誰からもチヤホヤされていないとウツになる女であるから、誰とでも長話をし、食事に誘い、相手を持ち上げる話をする。リップサービスである。男であれば愛されていると錯覚し、今回の場合のように裏切られて精神的ダメージを受ける。彼女は自分の身内の不倫でも誰にでもしゃべるタイプである。
すごく相手に気を使いながら無神経な女である。気が利きすぎて間が抜けている。
逆に男の方が慎重だし優しい部分がある。(気を付けよう!女の甘い言葉)である。男がストーカーになるのはこんな行き違いの場合である。
これも先ほど浮かんだ句である。誰にも見せていないし、わかってもらえるかどうかもわからない。最初は(川流れ遅く早くも海に着き)であったが、季語がないから伝統俳句の対象にはならない。歳時記を開いて季語を探しても見つからなかった。朝刊を開いて俳句の欄を読んでいると一茶に出会った。(秋の夜や旅の男の針仕事)であった。驚くと同時にすごく感動した。一茶が俳句指導のために旅をしてる時に詠んだと書いてあった。日常的光景に近いものであるが一茶の手にかかると立派な作品に仕上がっている。(秋の夜)という冒頭句がすごい効果を出している。(蟋蟀声旅の男の針仕事)でも面白い句になると考えた。
タイトルの句は山から流れる水は曲がったりくねったり迂回したりして、複雑な道筋を通る。が、すべては結局大海に導かれ、皆一つになって平等な結果に至る。これを箴言じみたもので現したかった。その意味合い・意図が出てるかどうかはわからないがともかく考えることが楽しい。
俳句の素晴らしさに出会って、日々が新鮮さを持ってきた。
今朝、庭に落ちた銀杏を拾い集めながら、こんな句が浮かんだ。銀杏、栗、ドングリなどすべての木の実は落ちても重なり合わない。たがいの芽立ちと成長を認めているからである。それが豊かな自然につながっていく。人間の場合も女は同時に違う男の児を孕むことができない。受精時、数億の精子が卵子にぶっつかっていくが、先着したものだけが独占し残りは死に絶えていく。
だが、植物界の生存競争は動物にも劣らないほど激しい。ヤブガラシやドクダミをみてるとよくわかる。同種同志の蔓は巻き合わないが野菜などの異種となると全身に絡みつき、絶やしてしまう。ヤブガラシと言う名前が(藪を枯らす)ことに由来してることを考えるとその凄まじさがわかる。
この句は先月の(俳句の会)で出したものだが、誰も理解出来なかった。10人ほどの先達者がいるのに私は自分が又、自己満足に終わったことを知った。訴えたかったのは蝉の抜け殻が壁に止まっていて、前足を出しかけた姿に実物以上の存在感を感じたのであったが、誰も理解できないとなると作品としては失敗である。
自分の人生を振り返ってみた。
(恋に恋する)という言葉があるようにわたしは女に対しても幻想に酔って来たのであった。何人もの女たちを好きになったが、会うまでの幻想・妄想に酔ったのであった。女を目の前にすると蝉の抜け殻以下のたわいのない種族であった。食い意地やおしゃれ、イケメンなど表面的なものに惑わされている実体を見ると幻想も妄想もあっけなく消え去り、時間が退屈なだけであった。せめてセックスでもさせてくれれば楽しいものをそれさえ拒まれることが多かった。でも楽しいことの方が多かったし、自己を知ることも出来た。
執筆中であったが中断している小説は(磁場)という小説で、毎日を互いに観察しあっている夫婦を描いている。後半の部分で展開を迷っているのだが、これを打ち破れば一気に書き上げられる。自己満足では終わらない作品に仕上げたい。
69年間の人生を振り返ってみて、人生、社会、政治、芸術まではだいたい理解できるが男女関係、恋愛だけは永遠の謎に近く、判断に迷うことがある。自分が好きな女のタイプにはいろいろあるが、母性愛の強い、しっかり者、と言うタイプがある。母がそんな人であった。朝の3時に起きて、洗濯、農作業、家族の食事作りをし、夫、子供たちを職場や学校に送り出し、10時には呉服屋に行って働き、6時から夕食作り、夜なべ仕事をし、11時ころ布団に入る、という生活であった。
自分が成人してからの恋愛相手はこんな母みたいなタイプがいた。結局、結ばれなかったが、気持ちはひかれ、その人のそばにいるだけで心が安定した。相手もそうであった。母性愛を求める男が母性本能の強い女に出会い、結ばれる。これはDNAどうしの反応だと思う。DNAが元素や分子のレベルで結合を求めていたのである。恋愛が化学反応だというのであればすべては化学式どおりに進むはずではないか?、でも進まない場合があるのではないか?と反論されるであろうが、科学実験でわかるようにその時の条件が変われば化学式どおりには進まない。温度や異物混入だとか条件が変わる可能性は多い。人間の男女の場合でも経済的な状態、健康状態、新しい異性の登場など条件は変わりやすい。
母親の胎内から生まれ出て初めて会う異性は母親である。それから成人するまで面倒を看てもらうもらうわけであるから、母が愛人、恋人になるのは必然的であり、マザコンは典型的な例である。
4年前に仕事を辞めたが、その前に心臓のバイパス手術に成功していた。駅南反対開発運動に加わり、家の引っ越しをし、障害者の会、カラオケ教室、英会話教室に通い、最近は俳句の会に通っている。野菜作りをし、グランド・ゴルフをし、産直店に野菜を出し、一時間半の散歩をし、小説じみたものを書いたり、と言うふうに動き回っている。
ところが心が満たされず、ウツになる時がある。気分が沈み、何もやる気が出ず、自死を期待している自分に気づく。太宰治の小説(人間失格)を思い出す。
退職後の生活がどんなふうになるかなんて予想も出来なかったが、こんなふうになってしまった。
夜の9時には布団に入り、午前4時頃目が覚めて眠れない。目が覚めない朝を空想してみたりするがそうはいかない。起き上がって、小説じみたものに取り掛かる。
庭から陽が射して、明るくなる。作業服を着て庭に出る。栗の木の下に行って、落ちた栗を見つけ、火箸の先でこじ開け、実を取り出す。お飾り用の栗は実を少し、覗かせているのが良い。それは別の籠に入れておく。脚立を立てて踏み段に上り、枝葉のついた栗を長い剪定はさみで切り落とす。生け花ようにしようとする。栗の実を水道水で洗い、お飾り用の栗をビニール袋に入れ、生け花用はビニールラップに入れる。ニラを切り取って洗い、雑草を取り除く・・。そんなことをしていると産直店の開店時間に間に合うかどうか不安になってくる。
在職中の集金業務の時の慌ただしさと焦りがよみがえり、仕事以外考える時間がなくなってしまう。無心になり、心地良い気分になっている。
結局、仕事をしていた時と同じではないか?
退職後、自分が特別に変わるなんて期待してはいなかったが、こんなものであった。
やはり時計を見る時間がないほど忙しい時、無心になれるのだ。