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ある三十歳の女と知り合ったが、異性としてではない。
僕の書いた小説を読んで、涙が出た、脚本を読んでるように面白い、と言ってくれ、その言葉に心が動かされたのだ。これまでは、三回読んでも何を書いてるのかわからない、小説の書き方という本でも読んで一から出直した方がいいんじゃない、などの酷評ばかりで自信を失っていたのに、その好評だから、心を動かされずにはいられない。その上、彼女は欧米人風の美人でもある。
どんなきっかけで知り合ったか?
それは彼女のプライバシーがあるので書けない。
ラインでやり取りしているが、彼女の顔写真には女友達の顔と二つ並んでいる。これも不思議である。どんな関係なのだろうか?
彼女とは彼女の仕事上で、二年間、毎週、顔を合わせた。食事をしたい、と誘ったこともあるが、曖昧な笑いで避けられた。同時に、わたしは彼女と顔を合わせたくないという矛盾した感情がある。七十一歳の私から見れば、娘に等しい幼さだが、時々、女として、想い、考えてしまう。そんな自分が嫌なのでもある。
単為生殖、というのがある。ゾウガメに見られるように、無精卵が子供を作り、産むのである。さらに、ゾウガメは温度の変化によってメスにもオスにもなるという。女性がオナニーで、想像する相手によって、相手との子供が出来る、ことだって空想小説で考えられる。想像妊娠と言うのが現実にあるのだから、空想に過ぎないとは言えない。
現代の、性の境界を失いかけた時代において、単為生殖の事実は貴重なものである。
独り者の男や女に自分の子供が産まれるなんて、素晴らしいことではないか。
本当の(性の開放)の時代、その幕開けではないだろうか?天動説から地動説に変わったように。
変わり者の自分が異端者ではないことに、なるかもしれない。
自分にとって物理化学は不得意な学科であったが、高校時代から哲学や人生論には興味があった。哲学書を読み漁り、苦手であった物理化学を哲学的に置き換え、哲学に敷衍出来ないものかと考えてきた。
今では、量子力学の(重ね合わせ理論)にどうやら、展望があるように思える。シュレディンガーの猫、と呼ばれる理論ー毒ガスを入れた箱の中に猫を入れ、猫は死んでいるか?生きているか?と問うて、(生きてもいるし、死んでもいる)という答え。生と死という人間世界では対立してる概念が実は重なり合っているということを知った。
従来、自分も他者も否定するものへの視点も変わってきた。死、貧乏、孤独、醜、汚い、病気など否定されているものへの再評価が生まれてきた。すると、この世のすべてを受け入れられることになる。
(重ね合わせ理論)は人間社会や世の中を大きく、変えつつある。典型的なのが、社会の性的少数者の認知である。これまで、差別、排除されていた人々に光が当てられ、彼らの結婚まで認められるようになった。バイセクシャルと呼ばれる人たちは異性愛者でもあるし、同性愛者でもある。フタナリと呼ばれる人たちで一つの体に男と女の性器を持っている。男女、女男と呼ばれる人たちもいる。体と心が従来の性の分類には当てはまらないのである。
量子コンピューターは、従来の、0と1の組み合わせから、0でもあり、1でもある、と言う領域を見出し、活用し始めている。デジタル言語に組み合わせの数を飛躍的に増大させ、処理速度もすごく速くなるという。
従来の二項対立ではなく、二項同居なのである。対立概念では世の中や社会、人間はとらえきれなくなっている。これは政治や科学や宗教などすべての分野において適用される。退けていたものを受け入れられるようになれば人生も社会も政治も大きく変わる。
多様性の認知なのである。
現在、あるキリスト教宗派に研究生として、毎週、通っている。
そこでは全知全能の神を崇拝し、悪いことはすべてサタンを呼んで排除する。ある時、次のように神父に言った。神にとってはサタンが必要なのですよ、自分が正しいと主張するには、悪魔を作らなければならない。アメリカにとって彼らが正しいと主張するには北朝鮮と言う、非人権的な独裁国家が必要なように。実はサタンも神も重なり合っているのです。
神父は返事をせず、神は人類を愛しておられます、自分を信頼せず、神に頼りましょう、と言うばかりである。
実は、善や悪には峻別できないのである。すべては二項同居なのである。いや、多項同居であり、それが多様性なのである。従来は混沌という言葉で呼ばれていたが、多項同居、という言葉が生まれるに違いない。
昨日は庭で焚火をして、たまっていた枯れ木を燃やした。冬は焚火が楽しく、燃える火を見ていると心まで温かくなる。エアコンの暖気とはちがい、火には自然の魂がある。
独りで火を見ていると、今年も終わったな、と言う気持ちになった。来年は元号が変わり、(平成)がなくなるのである。その言葉と異なって、時代の終わりには北朝鮮のミサイル脅迫があり、何と多難に満ちた時代であったろう。自分の場合にも、心筋梗塞、バイパス手術、退職と波乱に満ちた老後、余生の訪れであった。
ある小説を書き上げ、投稿している。入賞するかどうか気になるが、自分の人生のあの頃を、書き上げた感慨がある。その時に経験したある男との確執三十五年後の今でも、まだ、続いている。昨夜は夢の中に彼が現れ、わたしは、彼を蹴り上げた。眠ったまま、頭をガラス戸にぶつけ、目覚めた。やばかった。頭をガラスで切っていたら、出血して死んでいたかもしれない。血液さらさらの薬を飲んでいるので、出血は止まりにくくなっている。
憎悪は死ぬまで続くであろう。相手も私を憎んでいる。その作品の中で、事の経緯は、原稿用紙六百枚ほどで書き上げているが自分の心の中からは消えないであろう。憎悪が悪いとは、考えない。生きるエネルギーなのである。
庭先の焚火でしまゆ平成や
我が町は来年、町会議員と町長選挙がある、という。自分は、五年前に加わった海老津駅南開発反対運動で、政治と民意を知って、政治には興味を失っていたが、住民の多くは誠実な人が多く、この町の自然の良さに惹きつけられて、越して来た人が多い。ところが、町政は彼らの希望とは逆の方向に進み、今度の選挙においてもその流れが変わるとは思えない。
南開発に二十億円の金を出し、それは財政の三分の一にあたるのだが、開発が失敗であったことは誰の眼にも明らかである。地下通路を利用する者はおらず、バイパス道路を走る車は少ない。町は財政が苦しくなって土地を売ったり、公共施設の利用料金の値上げをしている。
現町長も退き、町議も三人は引退して入れ替わるらしい。それで変わるかと言えば、票田が変わらない以上、何も変わりはしないし、票田を引き継いだ者が当選するという構図になっているのである。票田とは大地主、有力企業、大手団体である。彼らは政治家と絶えず、酒を酌み交わし、献金をし、懇意の中である。そんな場において、町長や議員たちは彼らに酒を注いで回り、よろしくお願いします、と言う。票田は開発を議案にすることを望む。大地主の土地が値上がりし、企業誘致が成功して工事が増えれば良いのである。日常が買収行為なのである。
そこに一般町民の入り込む余地はない。彼らは請願や陳情を出すことは出来るが、議会にかけられて、町長・利権派に一蹴されるのである。
五年前に海老津南開発賛成派だった議員に訊ねたことがあった。
「北九州で駅の地下通路を作ったら、利用者が多い、としきりに訴えていたね?今、利用者は何人くらい?」
「知りません」
「ほとんどいないじゃないか?自分の言ったことに責任をとらないのか?」
「あなたにそんなことを言われる筋合いはありません」
この程度である。彼は年金の受給が少ないから、町議になったという。
小学校・中学校の友達が票田の母体である。
この構図は国政とまったく、同じである。
この流れを変えるとしたら、浮動票が動き、(良い街づくり)を主張する立候補者に投票するようになった時である。
わたしはもともと学校の成績が悪く、高校では物理、化学で赤点を取った。が、量子力学、それを哲学的に敷衍することには興味があり、物理・科学を哲学的に考える傾向がある。
最近、性的少数者が新聞にもよく取り上げられ、捉え方や結論づけにマスコミも戸惑っている。そのことは自分自身や性に対する考え方がからんで興味深い。以前のブログにも両性具有のことは何度も書いているが、今回、量子力学との関係づけに思いついた。
性的少数者の分類は以下のように分けられる。
1男でありながら男に性的関心がある。
2女でありながら女に性的関心がある。
3男女(おとこおんな)であって男女に性的関心がある。
4男女であって女に性的関心がある。
5男女であって男に性的関心がある。
以上の分類に分けられるであろう。
1 0である。
2 1である。
これは従来の物理学の考え方でデジタル言語を構成している。
3 0である。1である。0でもあり1でもある。
これは量子力学の考え方である。これを取り入れることで量子コンピューターは組み合わせが増え、飛躍的な数のデジタル言語を産み出し、すでに電気機器の様々な分野で活躍している。人間の生き方においても性的少数者を認めることで、多様性を認め、人生が豊かになり、考え方や思想・文化に大きな影響を与えることはまちがいない。
0でもあり、一でもある、というのは、男でもあり女でもある、と言う現象である。
その時代の流れの中で、(レア)も、変わり者、と言う世俗の印象から、希少、という位置に持ち上げれれるのである。だから、自分が他人と異なることに劣等感をもってはいけないし、社会に貢献していることを堂々と自己主張をすべきである。
わたしは小説が好きで、自らも駄作を書いているので、書く側の立場もわかる。時に、自分の作品への反省も込めて、現代の小説を読むことがある。新聞に取りあげられたものなど、本屋で立ち読みしたり、図書館で借りたりする。すると、意外なことが分かって来た。どの小説も書き出しから、長たらしいばかりで、いつまでたっても入口が見えないのである。カフカの(城)は偉大な作品で、(城)入り口が見えないことがテーマであるから、それが狙いだということがわかるが、それほどの作品でもないものに、いつまで読んでも活字が並んでいるばかりというのは腑に落ちない。しかも、それがノーベル賞作家、芥川賞作家、さらにベストセラー作品であるということになると、文学界への不信を抱いてしまう。それに評論家の立場である。彼らは間違いなく出版社の宣伝屋であるのであるから、評論家などとさも意味深い仕事の肩書など、つける理由はないし、時には作品の欠点なども指摘すべきである。
現代日本文学で古典として残るものは村上春樹の初期の小説くらいであろう。彼の初期以降の作品は長ったらしいばかりで読み進む気がしない。それに、小説家が新聞などに顔写真を出したり、大学の講師や役職をもらったりするのはおかしい。昔の小説家は、極貧生活の中から、傑作を生みだしたり、刑務所の中で書き上げたり、そんな不遇の環境が作品を作り上げたのである。
これは文学の世界だけでなく、芸術の世界一般に言えることである。
それに本の値段にはページ数がからんでいることもおかしい。だから、作家は長ったらしく書くのであろう。
一か月前に、ギンナンを庭の水道水で洗った。残り水を畑に捨てた。すると、驚くべきことに土の下からジャガイモが姿を現した。コブシほどの大きさである。よく見ると、チップを播いた地面の上に、枯れ枝を燃やした炭が載っていた。土はポロポロ状になっていた。同時に、ジャガイモの葉は薄い緑であった。これはチップが効いた場合に生じる現象である。一つの茎に二、三個のジャガイモが出来たのである。肉じゃがにして食べると、栗のような香ばしい味がした。
他方、チップと米ぬかを混ぜた土は出来が悪く、親指サイズのジャガイモが下の方に出来ていた。チップの効いた方は、地面に浮き出ていた。たぶん、表面の黒炭を求めたせいではないか、と思われる。もう一つの畝はそこで枯れ枝を燃やした場所であった。ナスが通常の二倍ほど生育していた。
これで、自信がついた。
来年の二月にジャガイモを植えるので、土づくりに取り掛かっている。
夏にはトマトやナス、キュウリ、ピーマンなどが庭を飾るであろう。
今日は宗像市東郷にあるバイク屋に、バイクの修理をしてもらいに行った。そこが良心的で費用も安いと知っていたからである。バイクの燃費がすごく悪くなっていたので、プラグが悪いのか点火時期のずれではないかと、考えていた。そこの、経営者かね修理工は、まず、満タンにして走行距離を計って燃費の悪さを調べて来てから来た方が良いですよ、とすごく良心的なことを言った。彼は80歳に近い高齢者と言う事もあって、話が、長話になった。
車の話になって、日本車はぶつかると、ボンネットを凹まして、韓国からは日本は弱い車を生産してると非難されているが、実はそうではない。強いフレームを作るのは簡単であるが、そうすると、運転者にぶつかった時の衝撃がもろに来て、運転者は車から飛び出して、死んでしまう。だから、バンパーやボンネットを弱くして、衝撃を吸収させているというのである。
そこで、学んだことは弱さが強さに勝る、ということであった。
これは、古い日本女、そして、軟弱と言われる政権のも通じるのではないかと、考えた。
キリスト教を聖書で学び、教えてもらいながら、およそ一年が経とうとしている。それをテーマにした小説も完成した。どんな評価を受けるかわからないが、自分では満足しているし、意外な発見もした。
宗教の存在の意義だとか、イエスの生き方、信者達の考え、キリスト教の本質、などいろんなことを見出したが、自分の立っている場所、その意味合い、を知ったことは大きな収穫であった。一年間も、学びながら、神を感じることは無かったし、祈ろうともしなかった。それが不思議なことで、若い頃であればまちがいなく、手を組んでいたはずである。
つまり、祈ることがないのである。自分の余命はうまく生きてあと、十年ほどであろう。家庭もなければ、夢もない。いつ死んでもいい、心境であるし、死を待ってもいるのだ。
いつの間にか、そんな心境になってしまった。
そこで考えるのは、近代以前の日本人は切腹も含め、死を引き受ける構えがあった。元服の儀式にあるように、切腹を作法から学んだのである。それに引き換え、擬制の民主主義と資本主義に毒された現代は、死を否定し、長生きする商売の大繁盛である。
死んではいけない、苦しんではいけない、悩んではいけない、と、ないないずくし、を普及させ、そうしておいてたっぷりと金儲けのために利用するのである。いっそのこと、死を引き受けてしまえば、すぐにでも消える悩みは山ほどある。
先日の、毎日新聞に、人の心を極度に読めない人のことを、アスペルガー症、と名付けていた。自分の周りにも何人かいる。その性格と暴力常習が加わって、生涯を精神病院で送りそうな男、一日中引きこもりの生活を十年近く送っている女、など近頃、増えている。認知症もその部類に入るようになるかもしれない。
前項の二人は、人の心を全く読めないわけではない。社会人としての生活を送って来た経験もあるのである。人は皆、生存本能があるので、まず、自分を中心に考えて行動するが、同時に他人の気持ちを考える余裕も持つ。その二人は、その余裕がほとんどなくなり、こんなことをし、あるいはしゃべるとどんな結果が出るかの予測が出来ず、その能力がすごく劣っている。他人とトラブルを起こしtれも、相手のせいにする。
一昔前であれば、一つの性格として片づけられていたのである。それに、精神病の病名が与えられた。精神病理学会は新しい病名をさも新種のように発見し、外科的な発見をせず、自分たちの社会的存在を訴えている。精神の反応や性格などは物質のレベルで分析、判定できなければならないのに彼らにはまだ出来ないのだ。
間違いなく、病名付けの順番を待っている人々がいる。
変わり者、そして、レア、である。
自分はこのホームページで、それらを、希少と定義づけているが、権威派、多数派の勢いには勝てそうにない。その流れは、すべての人類を精神病者にし、正常者は精神病に関わる業界の者だけになるであろう。