ブログ - 202505のエントリ
朝方、教会に投稿する俳句を考えたが良い句が浮かばず、家の隣の田んぼに行った。水が張ってあって、田植えを待っていた。予想していた風景であった。が、よく見ると、子燕が数羽、飛んでいるではないか!洗練された体形で素早く自在に飛び、仲間たちとあぜ道に降りて、泥の中の虫をあさり始めた。今年、生まれたばかりの子供でももう餌をとっているのであった。
感動した。燕は遠い国からやって来て、この時期にしか見れないのである。すぐに飛び去ってどこかに消えてしまう不思議な鳥である。民家の軒下に巣を作って、子供を育てるが、カラスと違ってどこか高貴なイメージがある。オスとメスが巣を作って、子を産み、育てる。子は成長して、餌を取り、子を産む。この循環は不思議というしかない自然の秩序である。自分たち人間もその中の一種のしか過ぎない。
子燕や苗代舞ふて豊作祈る
こんな句ができて、すぐにメールで投稿した。
自然に恵まれた環境の中で生きているこいとに感謝し、草刈りに一日を費やした。
亡くなった者を美化しているといわれるだろうが、そうであろう・・・。母は二十年前に亡くなっている。近ごろ、思い出して、想いに耽ることが多くなった。若いころは彼女が鬱陶しく、嫌いであった。恩着せがましく、自分が望みもしないことに世話を焼いて、うるさかった。父はロマンチストで酒と女を愛し、家庭を顧みなかったし、子供たちに愛情らしいものを見せたことがなかった。途方もない額の借金を作り女のために使い、母はその返済のために金を借り、働いたのであった。百姓をし、呉服屋で働き、子供の世話をした。日に三時間しか眠らなかった。息子二人を東京の私立大学にやったが、二人とも良い人生は送らなかった。
あれこれ思い出して、気づいたことは、彼女が一度も涙を見せたことがなかったということである。退職して野菜作りを始めて気づいたことはたくさんあり、その中の一つは花の美しさを知ったことである。母の植えた花がたくさん咲き始めている。バラ、菖蒲、水仙、シャクヤクなど、限りなく咲いている。まわりの草をむしってやると、花は美しくなっていくのがわかる。
それが母のイメージに重なってくる。思い出してみると、彼女は想像もできない苦しい人生の中で、一度も涙を見せず、美人で、女優のように美しかった。
今日は暴風の予報が出て、買い物にも行けず草刈りもできない。部屋でスマフォのニュースや株価を見たりしていたが、退屈なので庭に出てみた。昨日の草刈りの跡を見たりトマトの脇芽を取ったりした。空を見上げ、本降りになったらどうしようか?と考えていた。すると、そばでシャクヤクが花を開き始めていて、笑ってるように見えたのである。毎年のことなので別に大したことではなかったが、句が浮かび、こんな俳句になった。
自分は大雨を心配しているのに、しゃくやくは関知しない表情であった。植物であるから、移動することもできず、大雨が降ってきてもじっとしているしかない。知り合いに精神薬の飲みすぎで車椅子の生活になった者がいて、気の毒になり、あれではまるで達磨さんではないか?と思ったりしていた。だが、動物であるのに植物のように動けなることは実感としてわからない。数年先には80歳になってそうなるのであろうが・・・。
人間は知性があって素晴らしい!なんて考えているが、シャクヤクのほうがはるか高い位置にいるように思えたのである。
近所の畑で見ました。
散歩中に出会いました。こんな体験ありませんか?
庭の畑に行こうとしたら、顔に目隠しされました。
昨日のニュースで、タレントの広末涼子さんが自らの行為を双極性障害と認め、治療に専念すると告白した。介護してくれている看護師に暴力をふるったのであった。
この病状は以前は躁うつ病という病名が与えられていたが、双極性障害という言葉に置き換えられている。分裂病、躁うつ病、発達障害、双極性障害と病名が目まぐるしく変わるのは精神の病の複雑さを現している。自分はどドモリであり、知能が低く、感情の乱れる男で苦労をして生きてきたが、近ごろは見る目が変わってきた。自分の家の近くに障碍者養成施設があって、毎日、障碍者たちが訪れ、施設のドアが開くのを外で待っている。
不自由な歩き方をする若者が駅から歩いてきて橋を渡る姿を見て、気の毒だと思いながら、あの歩き方はもしかすると芸術的なのではないか?と考えることがあった。自分がどもってしゃっべるとき、個性的な話し方ですね、と言われたことがあり、その人はたぶん、ドモリという症状を知らなかったと思う。そんな見方があったのか?と考えながら、自分のしゃべり方を振り返ってみると、そ、そ、そうなのです、と言葉を出したりしているのである。
タレントや俳優は個性的でなければつとまらない。広末さんはそこに個性と才能を認められてタレントになったわけである。そこに治療を入れて普通の人になったとすればそれで天性の職を失ってしまうのではないか?不自由な歩き方、ドモリ、普通ではないものに対して、それをrareだと認め、社会に受け入れてやれば世の活性化になるのではないか?
薬が切れたので、昨日は病院に行って薬をもらってきた。医者は毎度のように大腸のポリープを切るように言ってきたが、思い切って大腸がんになってもかまわないと答えた。一センチほどのも大きくなっているから切っておくべきであるが、大きな病院への紹介状をまた書いてもらい、検査を受けるという手順が面倒であったし、四十年前にもそこにポリープができているといわれながら消えていたのである。
アルバイトのない日であったのでそれから、山に、竹の子堀りに行った。車の調子が悪いので一キロほどの道を歩いていくしかなかった。リュックの中に水と包丁、のこぎりを入れていた。二か所ほど登りの坂道がありそこがきつかった。年々足が弱っているので圧迫骨折でもすれば歩けなくなり、生きていけなくなる。道端に出ている竹の子の上の部分を鋸で切り落とし、包丁で皮をむいてリュックに入れる。自分の持ち山に入る手前でいっぱいになった。坂道に腰を下ろして、ペットボトルの水を飲む。幼いころは車がなくてそのようにして竹の子を取ったのであった。
さて、帰る段になった。リュックを肩に担いでみると、重くて、体が左右に傾いた。これはまずいと思いながら、片手にリュックの紐を握った。少しは楽になったが、これで一キロを走破するのは大変だとわかった。竹の子は教会で信者たちに売って、献金にするのである。雨漏りのする教会の修理費用の一部になる。
下り坂だったので少しは楽であったが、右手と左手を交互に持ち替えないと耐えきれなかった。
部落のはずれの一軒家に住む女を知っているので車で送ってもらおうかと考えたが、一人住まいなので警戒すると考えた。シルバー人材センターの女であったが、黙って通り過ぎた。
半分ほどの道のりをこなし、町道に入ったがまだ遠かった。線路の下の暗渠が見え、家に近づいていて、無事に着きそうであった。
帰宅すると、昼食を食べ、いつものかまどに火を起こした。大鍋にぬかと唐辛子、酢を入れて沸騰させ竹の子を入れて茹でていった。あと一回で竹の子堀は終わりそうであった。さて、大阪の叔母に送ってやろうか?この次にしようかと思い迷った。彼女は毎年、竹の子を楽しみにして待っているのである。
先ほどの、坂道を思い出した。あれはまるで磔刑を受けるゴルゴダの丘のイエスでなかったか?イエスは十字架を背負わされ、あのようにして登って行ったのであった。イエスを持ち出すのはおこがましいが、リュックを担いで坂を上ったとすればそれに近い経験であった。歩けなければ、祈ったかもしれない。教会に通いながらも祈ることは少なく、日ごろは従来の生き方で通しているし、クリスチャンにはなれないと思っているのである。