ブログ - 20240929のエントリ
七百坪の敷地の草刈りは一年中刈っても終わらず、始めの場所に戻ってしまった。そこの草の方が刈りやすく、少しでも成果を見せてくれるからである。残りは外来種のツユクサで一振りで刈れない厄介者である。また刈るわけであるがいつのなるのかわかりはしない。年中にはかたずけたい思いである。
椅子に座って、そんな事を考えていると、涼しい秋風が頬に寄せ、慰めてくれるように思えた。父母は亡くなり、一人ぽっちの屋敷で労をねぎらってくれる者はいない。地獄の釜茹でように暑かった夏がよぎり、秋風の優しさに思わず涙した。
札幌首切り事件、イスラエル戦争、台風災害、米野菜の不作、兵庫県知事の事件、など人間世界は相変わらず、混乱したが我が家は栗だけが順調に実をつけ、家計を助けてくれた。落ちてしまってそろそろ終わりを迎えそうであるが、体を開いて身を落とす栗をみると、心が温まる。栗は与えることによって、実を広がせ、生きているのである。
自分と同年配の者達は入院したり、杖をついて歩くようになったりしているが、まだ自分は二本の脚で歩ける。膝が痛むが一万歩も歩くカート作業もこなしている。
椅子に座った自分の背後では、使い古した鎌が草の中に転がっている。
(野垂れし鎌や刃先覗かす)
である。