ブログ - 202309のエントリ

床下のコオロギ一匹冬を越す

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2023-9-24 8:52

  昼間は暑くて扇風機をかけていたが、昨夜は寒く、目が覚めて、毛布と掛布団をかけて寝た。考えていたとおり、季節は変わり、また冬が来て、寒い!というのである。こんなことを、同じことを繰り返しながら自分はあの世にいこうとしていることに虚しさをおぼえる。が、これが人の生き方であることであり、季節が巡ることで自然が生きている、そして自分も生きていることに感謝すべきであろう。

 この時期になると、決まって、草むらで鳴いていたコオロギは床の下にもぐって鳴きはじめるのである。しかも一匹が、陽が暮れると、泣きはじめる。オスであろう、種付けの時期を失ってしまい、それでもメスを呼びつづけ、亡骸になるまで鳴くのである。

 まるで自分みたいである。いやそっくりかもしれない。

 今日の日曜日はいつもの日曜礼拝の日であるが、昼からアルバイトがあることもあって、あまり行きたくない気がしている。二つのキリスト教会に通っていて、ひじょうに勉強になっているが、もの足りなさをおぼえるようになったのである。それはトップ・ダウンで神や聖書の言葉を教えるばかりで、今の話についてどう思いますか?などは問いかけず、信者の側に立っていないからである。信者たちがどのようにして神を信じ、祈っているのかもわからない。どんな悩みに立ち向かっているのかもわからない。自分がどのようにして向き合うべきか?の参考も見いだせない。それらは牧師に聴けば教えてくれるが、問題提起をして議論をさせることで活発化させたほうがいいのではないか?

 数日前のヤフーのニュースで、養老孟子さんが、日本人の場では悩みをうちあけたり本音を出したりすることが少ないし、少なくなったと話していたがその通りだと思う。そうかと思うとマスコミに感化されてセクハラ、パワハラ、などにはすごく敏感なのである。それで世論が出来上がってしまう。

 ともかく時代の考え方が一本化されず、世界の出来事に振り回されており、なにを信じれば良いのか?わからなくなっている。歳の若い人たちは精神が錯乱してしまうのではないか?

 自然に立ち返り、床下のコオロギみたいに深く瞑想すべきではないか。

乳垂れる栗の木の下栗拾う

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2023-9-6 7:40

  我が家には四本のクリの木があり、先月から実を落とし始めた。昨年はおよそ千個の実が落ちて、生活費を稼がせてくれたので今年はすくないはずだと思っていたが同じくらいの量が収穫できそうである。宗像の産直店に、1パック・8個いり・150円で出したが2パックしか売れなかった。そこは売れない店だと知っていたので遠賀の人気スーパーに出した。昨日は二十パックのうち16が売れ、180円で出したのであった。これからはその店に三日に一度は持って行こうと考えた。

 国民年金での生活なので栗や竹の子、梅、ビワ、柿、はっさく、レモン、スイカなどの売れ行きは生活に直接ひびいてくる。二十年前に亡くなった母がこの家を建てた時にあらゆる果実や花を植えてくれた。それが実になり花になり、わたしの貧乏生活を支えてくれている。まるで母が乳を垂らしてこの老男にのませてくれているようなものである。敷地は700坪もあるので草刈りが大変であるが、その労働のおかげで健康を保っている。

 朝と夕、日に二度、栗拾いをする。一度につき三十分はかかり、ヒバシを手に持って、落ちた栗の実をこじあけて取り出す。時々、腰が痛くなり腰に手を当てて、叩いていると栗の実が勢いよく落ちて、頭を叩く。母が気合を入れてくれたように思う時もある。母は暴力をふるったことなどなかったが、教育ママ、モンスターであった。

 溜池が五か所もあるので蚊が体に数十匹も襲い、手で振り払いながらバケツの中に栗の実を貯めていく。水につけて虫食いを外し、洗って干す。日に当てて乾かし、二日後の朝、バイクでスーパーに持って行く。値札を貼りながら、他に栗が出されていないことを知り、さて、正午にかえってくるメールがどれだけの売れ行きを知らせてくれるか?想像しながら、店を去る。

 こんな一日がすぎる。

 

計画的な衝動

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2023-9-3 9:17

  ススキノ殺人事件において、瑠璃容疑者、修容疑者、母親の三人が逮捕され、今月から半年間、精神鑑定をうけることになった。わたしは犯罪を犯したことはないが、心の中では何度も殺人、傷害事件、レイプを犯してきた。いわば隠れ犯罪者であるし、すべての人間は犯罪者であり、気違いである、とたかをくくってもいる。

 隠れ犯罪者の視点からみれば、被害者には申しわけないが、今回の事件はあまりにも興味深い。それに、元精神科医が精神鑑定をうけるということはわたしが精神鑑定を受けることにも等しいことであり、保身性の強い評論家や権威者が述べる事とは違うリアルティがあると考える。簡単に言えば今回の事件は計画的なのか興奮状態における衝動なのか?が論点になるのではないか?異常な精神状態でなければ殺人行為はできないが、それは衝動的で精神耗弱状態だった、と認定され、無罪か減刑にされるにちがいない。

 瑠璃容疑者は被害者から不同意性交をされ、復讐を計画していたのではないか?殺してやる!と考え、ナイフやノコを購入し、ホテルに誘い込むストーリーを考え、殺害時の血痕の消去、など詳細にわたって、まるで推理作家が小説を仕上げるように構想し、何度も想像して楽しんだに違いない。

 ということは、計画的な衝動なのである。

 いろんな事件において、計画的な衝動という状況がもっと取り上げられていいのではないか?

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