ブログ - 202303のエントリ
3月22日は大阪から叔母がやって来て、彼岸の墓参りをした。母の妹であるが、六人の兄弟の五人は加齢でなくなり、たった一人のおばであった。毎年、彼女の実家に墓参りに来るが、今年は娘と孫を連れてであり、それは彼女が八十を過ぎて足腰が弱っているからであった。
そんな自分も75歳になって運転が不安であったが、しかたなく送迎をした。彼女らはまず夫の実家で法要をやっていたのでその寺に迎えに行った。次に彼女の実家に行って、庭で写真を撮った。それから空き家になっていた実家の庭の手入れをしてくれていた男の人の家の行く予定であった。
叔母はワゴン車の座席に上がるのが大変であったので、自分は体を抱いてやった。身内との昔話をしながら顔を見合わせていたが、なにかちがう!と自分は気づいたがそれが何なのかはわからなかった。叔母の顔を見ながら、こんな顔だったか?と疑問に思っていたのであった。もとより母の兄妹は美男美女であったが、叔母の顔は雪のように白く、顔の形も細面で、きれいな眉がのびていたのであった。別人か?と考えながら、細い声も小鳥が鳴くように可愛く、上品な身のこなし方はかわっていないのであった。
自分は幼い頃から、どういうわけか母の実家に永くあずけられていたので叔母や叔父たちとは兄弟のような気持であった。とくにその叔母は冬の寒い時には布団にいれて抱いて寝てくれたこともあったので、姉や恋人みたいな気持ちであった。
叔母たちが大阪に帰ってから、メールで、再婚するつもりですか?きれいな女に整形して・・、と送ってやると、絵文字で小鳥の跳びはねる姿がかえってきた。彼女の夫は十年前に亡くなり、彼女は一人住まいをしたいたから、まわりの男達がほおっておくはずはない。
そんなことを想像しながら、自分だってあのおばさんと結婚するチャンスはあるんだと考えながら、一人笑いをしたのであった。
その日はまさに、六十年前にタイムスリップしたのであった。
町内でやっているカラオケ教室に来月から通うことにした。週に一度で、会費も一か月千円でいいということであった。
そこで思い出したのである。三年前は別のカラオケ教室に通っていて、発表会に出て、歌い、楽しかった。発表会は大型施設で行われ、150人ほどが歌って、盛大であった。その時、わたしは舞台の袖口に立って歌い手へのマイク渡しをやった。肉感的に肥えた女が舞台に出る前にこう言ったのであった。
私の背中を叩いてちょうだい!
なんのことかわかないでいると、気合を入れるために思い切り叩いてよ!
黒いドレスから剥き出た背中は盛り上がり、私の欲情を刺激していたので、叩くなんて?そんなことより舐めたいくらいであった。
しかたなく軽く叩いてやると彼女はライトの下に立って、歌いはじめた。プロ並みのしびれるような歌い方であった。
ここで彼女の要望がなくて叩いたとすれば暴力、セクハラの声が出たかもしれないが発表会は成功のういちに終わった。もしかすると、叩いたことでシゴキという言葉が出たかもしれない。
体育会や部活の連中にシゴキのことを聞くと、気合をいれることじゃないか?と言う返事がいまだに帰って来ることがある。殴られる方がそのことをわきまえていればそれですむであろうが、時代はそれを超えてしまった。
わたしが自分の息子を叩いたのは当然、気合を入れるためであったが、言うことを聞かないという憎しみもあった。微妙な感情である。そこで気合を入れること自体がシゴキだと切り捨てられてしまえば人間の感情や行動の重要な部分が消えてしまうことではないだろうか?
250件ほどの家に、二年間ほど弁当配達してきたが、来月から受け持ち地域が変わることになった。自炊のできない高齢の孤老の家を一時間半ほどので回り、自分は運転はせずに、配達だけをしてきたが、思い出は残った。
大声で、弁当です!弁当をもって来ました!と玄関で叫んでもすぐに返事が返ってくることはない。ほとんどの老人たちは耳が遠かったり、テレビのスポーツに夢中になっていたり、近所の家に遊びに行っていたりしている。そうかと思うと、オベントウデスネ?、チョットオマチクダサイ、と間の抜けた声を出し財布を探し始め、手提げ袋の中をよたよたと手を回す。見つかるまで寒い外で立って待たなければならない。または返事はするが歩けないために床を這って来るお婆さんもいた。どうしたんですか?たいへんですね、とはいうが長話をする時間はない。色っぽいお婆さんには花の球根ややったりしたが、次の週に行くともらったことをすっかり忘れている。
返事がなければ安否確認のために家に上がり込み、家じゅうを探したこともあった。倒れていて、警察を呼んだこともあるらしい。自分の生活に戻って草むしりをしていても、あの声が聞こえてくることがある。丁寧なお婆さんで、自分が帰る時には門扉のそばまで見送りに来て、ありがとうございました、気を付けてお帰り下さいね、と深々と頭を下げるのである。
今にも消えそうな干からびた声が、あの世から自分を呼ぶように聞こえてくる。もしかするとあの世で会えるかもしれないが、忘れられない声である。
自殺者が増えているというニュースがよく出ている。特に、若者や子供が多くなっていて、気が重くなる。自分の若い頃、自殺しかけたことがあったので余計に気が重くなる。六十年まえ、家出し、箱根の山を彷徨した。別荘に勝手に入り込み、トイレで寝たりしながら死に場所を求めた。大学入試に落ち、父母はいつも口論ばかり、ドモリは治らないし、就職できるかも不安であった。どうしたらいいのかわからない。睡眠薬とウイスキーを飲み、トイレの鴨居にロープをかけて首を中に入れた。ところがいつまでたっても眠気は来ず、酔いはしなかった。
仕方なく家に帰ったが、受験勉強をする気持ち人もなれず、家にこもったままぼんやりと過ごした。小説を読みながら人間に生き方を探した。太宰治の小説などは特に感動し、彼が二度も自殺を図り、三度目に成功したことも知った。それから自分はボロ大学に入り、卒業したかどうかもわからないまま、肉体労働をしながら金を溜め、結局何をやってもダメなまま帰郷し、NHKの集金をしながら稼ぎ、結婚したのであった。
あの時死んでいればどうなったか?大食い、大酒、女狂いはできなかったであろう。それらは心筋梗塞を起こし、死にかける羽目に陥らせたが、あれだけの快楽は味わえなかったであろうし、文学に目覚め、神を知ることもなかったであろう。
自殺を考えてる人に言いたい。その絶望的な状態はいつまでも続きはしないのです。必ず、変化がおきます。それを信じて、生きてください。七十五年間、人間業をつづけた私の言うことです。
この出来事は五十年間、悪夢となってよみがえり、夢に出て来たのである。
「てめえら、チンタラチンタラしやがって先輩に対する態度がなっとらん!」その言葉が発せられると、ベランダに整列させられた13人ほどの新入生のみぞおちは、一人14発ほど、鉄拳で叩かれえていった。うめき声が連なり自分に近づく時の恐怖は殺されるほどの恐怖であった。空手の練習で体の筋肉を鍛えられていても、みぞおちだけは筋肉がなく鍛えようがなかったのである。
そのシゴキは毎週行われ、自分は失神して倒れたが、それでも行事のように続けられた。五十年前の当時は多くの体育会で行われ、ワンダーホーゲル部で死者が出たり、左翼の政治運動でリンチ殺人がおこったりすることは日常茶事であった。
今の人でその時代をおぼえている者は少なくなり、歴史からは消えていくであろうが、自分は忘れはしない。大学名と加害者をここで出すことはまだ控えるがいつかは出すつもりである。
今の時代のニュースはほとんど毎日、暴力事件、レイプ事件に占められているが、暴力に対する深い追及はあまりされておらず、同じことの繰り返しである。
ここで問題にしたいのは、可愛いから殴る、と言うことである。子供を持った親であればわかるはずだが、子供は子供の世界があって、親の言うことを聞かない。毎週毎週高校に遅刻して、車で送ってくれと言う息子をいい加減にしろ!学校が厭ならやめろ!といって叩くことは暴力なのであろうか?
言葉でいくら言っても聞かない出来事を叩くことで目覚めさせようとする行為である。難いからではない。そんなことでは社会に出ても飯が食えないぞ!という警告なのでqる。
この言葉は、太宰治の小説の中に出てくるのであるが、自分の遺言でもあることがわかった。
昨日は人材センターで仕事の話し合いがあったので参加した。弁当配りの仕事をしているのだが、コロナの感染が問題になり、仕事のやり方が変わるという。来月からはお客さんに直接手渡すのではなく、指定された場所に置き、代金は振り込んでもらうようにするという。それは良いことであるが、何か意見はないですか?の言葉に自分は発言した。仕事中に事故が起こった場合の責任についてであった。対人・対物も含めて運転者が金を払うと従来から言っているがそれでは怖くて仕事ができない!私たちは週に一度しか仕事をしていないが労働者ではないか!と言った。すると、いつものように請負であるから個人事業主である。と言う。それは労基署が言っているのか?あんたたちが都合のいいように勝手に言ってるんじゃないか?
と、自分は十年前に労働組合活動をしていた気分になった。つぎに、安心して仕事ができる職場を作るのがあんたたちの仕事ではないか?会員を増やしたいんだろう?そしたらそうすべきであろう?
そこで、横やりがはいるであろう、と予測していたら案の定、入った。自分の嫌いな男が、中村さん、みんな責任を持たされることをわかって働いているんだから、そんなに興奮していうもんじゃない!
誰も黙っていた。
それなら、おれはもうこのことについてしゃべらないと、口を閉ざした。
前の会社で活動していた時もこうやって梯子を外されたのであった。
それから、雪の降った日の仕事についての話し合いになった。狭い団地などは一車線の車道で急な坂道が多くて、ハンドルを握るのが怖いのである。雪の日は、配達を止めるか、町役場の車で回りその保険でカバーするか?など意見が出た。
そんな時運転手の車で配達していて大事故が怒ったらどうするのか?三年前、選定作業を終えた会員がその団地の線路に車ごと落ちてすごい事故になったじゃないか!想像もできない額の請求があって、運転手の任意保険を使ったそうじゃないか!
そんなことを話し合っているうちに一時間の時間がきて、終わった。
帰宅して自分の意見が持ち上げられなかったことに失望し、やはり、以前と同じことの繰り返しであったrと思った。そして、こんな大事なことに人ごとのように聞いている日本人にも失望した。
やはり、わたしは人間の生き方というのがわからないのですね。