ブログ - 20211005のエントリ
今年も自信を持って応募した小説が、第一次予選で落ちた。若い頃は、二度ほど第一次予選を通過したことがあったが、近頃は老いたせいもあって、ダメである。だが文章を書きながら、時代が読めたことは一つの収穫にもなった。
それは現代を取り巻く社会が見えた、ということでもある。暴力、戦争、差別は絶対に肯定してはいけないし、肯定するものは社会から追放されるということであり、芸術や文化もその権力からを免れられないということである。だが、芸術や文化はそれらの社会概念とは異なる世界のものであり、ある時はそれらと戦ったのである。本来、それらが良いこととか悪いこととか言う基準は本来、もっていないところで成立していたのである。これが平成、令和の時代になって完全に崩されたことがわかった。
自費出版系の出版社に文学賞を応募したら、当選はしなかったが、180万円出せば出版したいという話があり、その書類をよく読むと、不適切表現があれば削除させてもらいます、という文面があった。これはプロの作家に対しても了解をとっているはずである。
今、わたしが取り組んでいる作品は、奇形顔を持つ男のドラマであるが、そこで作者が主人公に良い結末を迎えさせてあげたいと考えたり、唇が裂け神社の狛犬のような顔、と書くことに不適切表現として戸惑うのであれば書く資格はないと思う。
近頃、問題作や話題作はすっかり消えてしまった。当然である。文学や芸術は牙を抜かれてしまった。あとは衰退し、死滅するしか無い。このことに何人かの作家は抵抗したが、大学の講師や食いぶちの職を与えられて抵抗力を失ってしまった。反骨者はいなくなった。
小説はこれまで社会に大きな影響を与えてきたがもうその役割を終えたのかもしれない。社会概念が検閲になり、出版社もそれを先導する役目を持ってしまい、戦後の抵抗精神をあれだけ賛美していたくせにこの(転向)に気づかず、問題提起もしなくなった。
本当の作品が出るとすれば、既成概念への(抵抗精神)を持つ者に違いないし、それが自分であればこれまでの不遇が報われるというものである。