ブログ - 202109のエントリ
五十年まえ、職業訓練校に通っていた時、自動車整備学科で(負圧)というものを学んだ。キャブレータの構造を学んでいる時であったが、その不思議な構造に生命に似た役割を知り、驚いた。ドイツ人の考え出した構造であったが、車が坂道を登るときには負圧の原理を利用して混合気を濃くするのである。通常の走行では薄くし、効率的な仕組みであった。
正圧と負圧というものがあり、正圧は流れ込むエネルギーを持ち、負圧は逆に引き込むエネルギーを持つのである。風が吹く場合、高気圧から低気圧に流れるのと同じ原理であり、生命体の場合、♂と♀の性器の構造を考えればその役割は具体的にわかってくる。同時に、男女平等、差別はいけないと世間はそれを社会システムの根底にしているが、差別ではなく区別であるという捉え方が出てこないと社会はぎくしゃくしてしまう。
女を見る時、年齢、化粧、服装などいろんな点を見るが、そのときには一般的な価値基準である。ところが現実に恋愛をして、どこにひかれたのか?と振り返ると、一般的な視点が基準になっていない場合が多い。一般的な美の基準とは異なって、醜い、老いているなどが負圧の作用を起こしている場合がある。八十歳に近い老女がいる。貧乏で病気がちで、顔にシワが多く、無口で愛想はないがわたしは車での送迎を重ねながら、背後から抱きしめてやりたい気持ちになる時がある。杖を突きながら車に乗るので抱きかかえてやろときもある。そのときに強い負圧に引き込まれそうになる。
これはある意味で色気でもあるし、現代の女性は虚飾にとらわれて本当の美を忘れていると言わざるを得ない。
私の家のそばは遊歩道になっていて、散歩者がよく歩いている。二、三年前、路面をこするゴロゴロ音でT先生の散歩だとわかり、話を交えた。おれはもう95歳やけね、死ぬのを待っとる、と言って去っていった。中学校の体育の先生をしていたが、兵隊から帰ったばかりで、生徒を叩くことで有名であり、元気いっぱいの男で、その人の妻と私の母が従姉妹であった。老いて元気を失い、もうすぐ老人ホームにはいるとも言い、その言葉を残して消えていった。ある時は、カラオケボックスの階段に独り腰をかけていたこともあった。淋しげであった。
わたしの右の奥歯は歯槽膿漏にかかっていて、明後日、抜くことになっている。はじめての抜歯なので経験者にきくと、抜いた後、コップ一杯の出血をしたと聞いてゾッとしたが、もう歯が腐っていてぬくしかない。一本だけでは済まないかもしれない。
自分も死に近づいているのがわかる。
コロナで大勢の人が苦しみ、死んでいった。それは食物連鎖の構造の中で人間に順番が回ってきたのである。増えすぎた種は減らされるしか無い。人間はこれまで何万種類もの生物を絶滅させていったのにその反省がない、人間中心主義である。田んぼにアメンボもゲンゴロウもジャンボタニシもいなくなったことにほとんどの人は気づかない。
そろそろそんな観点からコロナを見、農薬を使わない農業、ビニールや化学薬品を使わない生活を始め、コロナ後の新しい生き方をすべきである。
人間たちがワクチンの接種をはじめ、全世界の人口の半数ほどに増やした頃、コロナは戦略を変えた。そのままの体制では感染者を増やし、人体の体内でRNA(彼らにとっての人口)を増やせないと考え、ワクチンの効果より感染力の強い種をつくり、対抗し始めたことはニュースでも見られることである。だが、そこには重症者、死者をへらすという戦法が見える。彼らにとって、生かさぬよう殺さぬよう、というのが狙いであるから死者が増えすぎては彼らは餌をうしなうことになるのである。
最近、わたしはスマフォで猫の動画を見ることが趣味になった。母猫を起こそうとする子猫や食べ物をねだる猫やネコジャラに興奮して飛びかかろうとする猫など飽きない動画に自分で驚いている。別に珍しい光景ではないが、動画にされるとすごく印象的になる。動物が人間以上に人間的に見えるし、動物に劣る人間の姿もニュースで発見したりして、人間の生き方を動物たちに学ばされることが多い。
そんな観点からコロナを眺めると、コロナに振り回されるのではない新しい光景や考えが生まれてきそうである。
扇風機の風から秋風へ、生まれ変わるこの季節のはずなのに、ひぐらしのなき音がまったく聞こえてこない。毎年、まちがいなく、カナカナと鳴いて寂しい余韻を送り届けてくれたセミはどこに行ったのか?不思議である。
直近のことなので振り返るという言葉は適当でないかもしれないが、(今年の夏)ほど、中身の濃い季節はなかった。うなじに垂れる脂汗、しつこい蚊の攻撃、いつのまにか消えてる蚊取り線香、コロナ感染者の悪の数字、草刈り、夏バテ、貧乏たれ、その挙げ句に今日はバイクの自損事故を起こした。バイクを助走しながら家を出、停めて、門扉を閉めるつもりであった。それからがわからなかった。停めてるはずのバイクが動いていて、体ごと石垣にぶつかりそうになっていた。慌てて、エンジンを切ってバイクを止めたから、大事に至らなかった。腕と足に六箇所ほどのかすり傷ですんだが、そばに人や車がいれば大事故になっていた。
それからシルバーの弁当配達のバイトに行った。一時間ほど、後部席で、運転手の男としゃべり、配達をし彼にクリをやると、栗ご飯を作ろう、と言って喜んだ。くりは自分のうちの庭で採れたものであった。
バイク事故はいやな余韻を残した。近頃は車やバイクを運転する時、事故を起こすのではないか?と不安になる。左目の半分は見えず、頭や腰がふらふらしていて、倒れるのではないか?といつも不安である。
まさに、陽が落ちる別れ惜しむかカナカナや、である。