ブログ - 202210のエントリ

空気が読めない

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日記
執筆 : 
nakamura 2022-10-30 9:05

  わたしは75歳になって、なんとか空気を読める男になったが、現在、空気を読めないことは適応障害と捉えられている節がある。発達障害という言葉もあり、これが障害者の中に追い込まれている風潮であれば、問題である。まわりに同調することは空気を読めて健全なのであろうか?政治や思想、学問の分野で異質な考えを持つことはその世界の発展のためには必要なことなのである。

 確かに空気を読めなくて困っている人はいるし、自分も大学生のころまで他者の心が読めなくて困ることがあった。だから自分の異質性を捨てていったのであるが、振り返ればそこには貴重なものがあったのである。その時は評価できなかっただけである。今、捨てたものを拾い直し、小説の中に生かそうとっしているのでもある。

 空気を読めないことは悪いことではない。今、芸能や音楽、絵画、小説などが活気を失ってしまっているがそれは空気を読める人間ばかりが多いからである。

反転対称形

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日記
執筆 : 
nakamura 2022-10-29 8:43

  このタイトルで以前にも書いていますが、あらためて真理だと認識したのでもう一度書きます。

 反転対称形というのは鍵と鍵穴に見られるように、反転してみればまったく同じ形と機能をそなえているという位相です。最近ではウクライナ戦争の発生と進行において、ロシアがウクライナを攻撃し、今は欧米とロシアの対決状態に発展しているが、その攻撃態勢と軍備は相互が等しい状態になっています。ロシアが核攻撃態勢に入りそれを匂わせればウクライナの同盟国であるアメリカも核を搭載した潜水艦を配備しています。だから、どちらかが停戦・終戦の体制に入らない限り、膠着状態は変わりません。わたしは戦争反対の立場ですが、戦争は決してなくならないと思います。だから、かまえの装備は絶対必要です。

 話を戻してもう一度、反転対称形の真理を考えてみれば、私たちの日常生活はその真理が法則になっていることがわかります。愛と憎悪、近親と排他、上と下、金持ちと貧乏人などすべてを占められていて一方が消えれば他方も消えるという構図になっています。男性器と女性器もそうであり、長年夫婦生活をしていると女性器は男性器の大きさと形になっていくのです。

 聖書を深く読んでいても、わかります。(ノアの洪水)、(ソドムとゴモラ)においても、神は人類をいったん滅ぼし、戒めますがまた同じ悪行をくりかえし、リセットができません。わたしたは、エデンの園から遠ざかるばかりみたいです。

加害者のいだく被害者意識

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日記
執筆 : 
nakamura 2022-10-23 9:03

 ウクライナ戦争におけるプーチンの言動を見ればわかるように、加害者のくせに加害者と言う意識はまったくなく被害者意識に凝り固まっているのがわかる。ナポレオンやヒットラー、直近では欧米・ナトーの侵略からロシアを守るため、ウクライナを併合する、という論理である。それは太平洋戦争において日本が欧米の侵略からアジアをまもるという構図にそっくりであるし、これまでの侵略戦争に共通することでもある。さらに、世界の歴史は侵略の歴史でもあるのだ。

  だが、なぜ武力行使でなければならないのか?アメリカもかつてイラン・イラク戦争、ベトナム戦争などで侵略してきたが、いずれも失敗し、世界の警察官の立場を返上しかけたではないか?それをスパイあがりのプーチンは理解出来ず、自国を崩壊と破滅に向かわせているのである。日常生活においても暴力沙汰が絶えることはなく、加害者は自分が害を与えているという自覚はなく、腹をたてさせられた、裏切られた、侮辱されたという被害者意識ばかりである。つまり、加害行為には被害というまったく逆のベクトルが内在している。作用と反作用という物理学の法則みたいなものである。

 これに振り回される国家・社会・人間に、自分も含めてもう少し成長してほしいと思う。

切り捨てていったもの

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日記
執筆 : 
nakamura 2022-10-23 4:19

  小説の執筆に取り組んでいるが、三分の一くらいまで書いて、それから先が進まない。題名とテーマに沿ってすすめているのに気力が失われ、その方針に疑いが出てしまう。傑作と呼ばれる作品を何度読んでも、ヒントが浮かんでこない。そこで、傑作ではなく、印象深かった作品を思い出してみると、西村賢太の(苦役列車)に思い当たり、図書館からもう一度借りて来て読み、研究する。

 書き出しからして、朝起きて、臭い汲み取り式の便所に入って小便を長々とする場面である。一般的な作家はこんなありふれた汚い婆面は最初からきりすてるのであるが、その作品は芥川賞を5とっただけあって、心に残るものであった。なぜなのか?と考えた。作者は私小説の信仰者であり、無名の私小説作家の全集を発行もしているのである。そこでわかったのである。作者の狙いは、切り捨てるものの中に価値があるという見方であったのだ。それはわたしがこのホームぺーヂの冒頭に書いていたことではないか?

 つじつまが合った。作者が書いたある小説の中で編集者はこの部分は切り捨てろ!と言うが、妥協せずに文芸雑誌にのせたところ、その部分が評価され、認められたと書いていた。作品の評価と言うものは結構難しいものである。ヒット曲やタレントや映画であっても最初からうまくいくとは限らない。

 そんなことを考えながら、取り組んでいる作品の切り捨てるか所にもう一度目を向けることにした。日頃の生活の中でも切り捨てた知り合い・友人や食べ物、映画などいろいろあるがもう一度、手に取ってみると意外な真価があるはずである。

異界

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日記
執筆 : 
nakamura 2022-10-21 7:01

  これは自分にとっては変わった体験ではなく、ほぼ日常的といえることです。午後8時ころ、布団の中に入り、異界への旅立ちへ向かう。十二時ころには寝入り、夢うつつの状態で目を開けている。目の前で黒ずんだ椅子や机、カーテンなどが微かに揺れ始めている。目をしっかり開けても左右に揺れ、生気をともなっているのである。人の形を帯び、女の姿であることを感じるがだれであるか特定はできない。黙ったまま自分と向き合っているだけでそれ以上のことはない。仰向けに寝ていて、右側は浴室とのさかいになっていてガラス戸がはめられ、目隠しのために本棚を立てて、遮っているが、その隙間から小さな灯かりが縦状になって入り自分と向き合っている。光る剣のように見え、揺れるので誰かが握っているように見える。それが自分を刺そうとしている。(誰だ?何をするんか!)と、怒鳴って立ち上がり、布団のそばにあった何かを握り、投げつけた。正気に戻って、ガラスが割れたかな?と心配になってガラス戸を触れてみるがどうにもなっておらず、投げつけたはずの物も見当たらない。以前はガラス戸を寝たまま蹴り上げたことがなんどかあった。

 日常性生活の中で幻覚を見ることはないが、勘違いや思い込みが多く、感情的になることが多いので、NHKに居た頃も気違いだと陰口を叩かれることがあった。受信料のことで客と言い合いになることがすごく多かったからである。

 ひるがえって現実世界を眺め、ウクライナ戦争のプーチンの姿など見ると、人は皆気違いであると思う。太平洋戦争において、日本は欧米の侵略からアジアを護るという大義名分のもとに中国を侵略したことはつい最近のことである。数百万人の人を殺し、ヒットラーも同じことをやった。いつ、尖閣列島や北方領土を守るという名目で戦争を始めるかもしれないのである。そのことを掘り下げて報道するマスコミはなく、ウクライナ戦争を視聴率の材料としか考えていないのである。

吃っていれば治る

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日記
執筆 : 
nakamura 2022-10-10 10:01

  昨日は教会に、日曜礼拝に行った。若い男がドモリながら牧師に、クリスチャンの数が減っているとしゃべった。珍しくドモリの声を聴き、自分のしゃべり方を耳にした。

 わたしは75歳になってもドモリである。ずいぶん長く付き合ってくれるな?と考えながらも、人前でしゃべることもなくなったので困ることはないとわかっている。その若い男と話をしてみたかったが、夕方からカート整理のバイトがあったので昼前に、帰宅した。

 ドモリとは奇妙な症状である。身障者に認定されることはなく、精神科医ですら症状の原因をはっきりと突き止めてはいない。が、わたしにはその症状のからくりを自己研究によって十分にわかっている。人は言葉をおぼえはじめた頃、上手くしゃべれず、戸惑う時がある。その時に、そんなしゃべり方をしてはいけない!と注意すると発語をとめてしまい、ドモリになっていくのである。歌ではドモラないので器官に異常があるのではなく機能・働きに異常が出てしまってるのである。幼児のドモリ症状を放置しておくと、まわりのしゃべりかたに同調して自然になおっていく。

 自分の場合は働いていた頃はほとんど治っていたが、退職して一人ぽっちになってしまうと話し相手がおらず、再発しがちなのである。だから、教会に行って賛美歌を歌ったり、弁当配りの仕事で声を掛けたりして、世間と調和し、言葉を出やすくしている。

 悩んでいる方はこのからくりを知って欲しいし、そばにいる人も理解して欲しい。

女の気持ち

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日記
執筆 : 
nakamura 2022-10-6 7:53

  その花の名前を思い出そうとするが、思い出せない。アマクリナムだったと考えて検索するが出て来ない。ピンクの百合のような花で、今は畑で枯れている。親しいと言っても、友達の関係である奥さまから、いただいて4月頃、球根を6個ほど植えた。この前の電話で、花が咲いた?と尋ねられた。ほぼ忘れていたが、その場所は草刈りをしたことを思い出し、失敗した!と思いついた。あまりに畑が広いので忘れてしまい、草刈りをしたことだけは頭に残っていた。奥様に正直に告白して、草を刈った後を調べてみると、何株科の球根が残っていた。良かった!奥さまの気持ちを踏みにじらなくてすんだ!

 それからその花は芽を出し、見事に咲いたのであった。

 奥さまに電話で告げると、良かったわね!

 と喜んだ。

 ところが、産直店に持って行って売った?ときくのでびっくりした。

 そんなことは出来ないよ!

 どうして?

 あなたの気持ちを踏みにじることになるじゃない!

 そんなことはないわよ。あなたに生活の足しになると思ってあげたのじゃない?

 ・・・・・・。

 そこで考え込んだ。

 奥さまは自分を弟のように可愛い、といってくれるがそれ以上の関係には進まない。自分も女を感じないので、それで良いのであるが、もらった花をすぐに売ってしまい何ていう事はあるのだろうか?せめて何年かたって、増えたので売るのであればわかるが、どうも腑に落ちなかった。

 そこで思い出した。

二年前に奥さまにうちで咲いていた八重椿の花をさしあげた。すると、あまりにきれいだったので友達にあげたという返事があり、心に引っかかっていた。おれの気持ちも入っていたのに、すぐに人にやるなんて?

 奥さまはすごく気前のいい人ですぐに人にあげるのであるが、どうもわからない・・・。

 

 

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