ブログ - 202110のエントリ
明後日は衆議院選挙の投票日であるが、だれに投票して良いのかわからず、投票日だということも忘れていた。大学時代に左翼にかぶれ、政権に反発ばかりしていたが、中国や北朝鮮の実態を知るにつけ、共産主義思想は失敗であったと認識せざるをえなくなった。歴史をみれば、いつの時代でも、時の政権は底辺にいた者から権力を奪われ、政権をとった者はまた奪われるという循環を繰り返しているに過ぎないのである。
わたしはある左翼政党の党員になったこともあるが、その上層部が党費を使って贅沢三昧の生活をしていることを知り、懐疑的になった。ある時、学習会で、この政党はある宗教団体とたがいに批判をしあわないという協定を結んでいるのではないか?と発言したところ、そんなこと言うたらいかん!と支部長から怒鳴られた。その出来事をこのブログの欄に書いたところ、削除を命じられた。岡垣町支部長と書いているのが個人の特定に当たるというのでとりあえず削除した。そこで、言論の自由のない団体には興味がないと叫んで、脱退したのであった。ある日、古い党員が、あなたの言ったとおりその宗教団体とはたがいに批判はしないという協定を結んでいると教えてくれた。
結局は左翼とか右翼とかの問題ではない。どちらの政党も同じように貧しいものを助け、豊かな社会を目指してしているのであるが、やり方が異なるのである。自民党は大企業のおかげで豊かな生活ができると言い、左翼は貧しい者たちが頑張るから大企業は成り立ってるといい、どちらも一方的で違う視点から見ることができない。本来は、力のある大人が子供を助け、成長したこどもが老人を助け、力のある健常者が要介護老人や障害者を助け、金持ちが貧困者を助けるなど、相互扶助を循環させれば活性化するのである。循環こそエネルギーの根源なのである。自然界が循環してエネルギーを産んでいるように人間界もそれを見本にすれば良いのである。 今の民主主義社会はある程度、そのようになっているが、大企業と金持ちが自民党に政治献金をし、また票を入れているために大企業の内部留保金は銀行に眠り、個人のタンス預金も眠っている。その金が死んでいる。そのことが格差を生み、いくら頑張っても貧乏から這い上がれない歪みができ、社会を沈滞化させている。
自民党は大企業から票をとることばかり考えないで、国民全般から普遍的な票を取れることを考えなければいびつな社会は変わりはしない。政権の別な派閥は力を持ち、ちがう政策を提案し、左翼政党も与党の批判ばかりせずに、政策への提案をして、自分たちならこんな社会にできると訴えなければならない。右翼も左翼も自己改革を求められているのである。
(中村さん、あなたは今こうして集金の仕事をしているけど、もう一つの宇宙では附属中学校に通っていたあの頃の世界がそのまま続いているんですよ。その世界とはけっして交われない並行宇宙ですけどね)
三十年前、kさんの家にNHKの集金のために通っていた頃、彼のつぶやいた言葉が頭の中にはっきり残っている。あれ以来、彼の言う多次元宇宙が少しずつわかってきた。親と担任教師のすすめで地元の中学校に行かず、電車で二時間もかかって通った小倉の附属中学校はわたしの人生を大きく変え、劣等者の烙印を押し、陰気な性格を強めた。無遅刻無欠席で送った生活であったが成績は130人中、100番くらいであった。通学電車の中では英単語のカードを必死でめくり、歴史の年号をおぼえることに努めたのに・・。結果的に評判の良くない大学に入り、肉体労働を転々としながら、帰郷して集金人になり、なんとか妻子を養ったが、今はアルバイトと年金で食いつないでいる。
それをどのように評価するかは自分次第であるが、孤立無援の生活になると、やはり、あの頃と同じく負け犬であったと思わざるを得ない。が、自分には考える力が与えられたと思う。四、五年前、福岡伸一さんの(動的平衡)という本を読んで感動したのである。動的平衡とは、ウイキペディアによると、物理学・科学などにおいて、互いに逆向きの過程が同じ速度で進行することにより、系全体としては時間変化せず平衡に達している状態を言う。ミクロにみると常に変化しているがマクロに見ると変化しない状態である、と載っている。
Kさんが言ったように、附属中学校に通って真面目に勉強していた自分であるが六十年後も同じように真面目にアルバイトをしながら食いつないでいるのである。優秀であるとささやかれていたわたしが今では精米所に通ってもみ殻を袋に詰め、売っているのである。それが平行して同時に流れているとすれば面白い。違う世界を持っていることは世界を広げるのである。
時々、附属中学校に通っていたころの自分の姿を思い出すことがある。グレーの制服で通勤電車に乗り込むと大人の中で目立ち、人目を引いたのであった。今、それがわたしの姿であったと知る人はほとんどいないし、わたしはその頃の自分と現実的に対面することはできない。パラレルワールド(平行宇宙)なのであるが、そこで生活をつづけていることは本当であろう。朝の目覚め時に人の姿を見ることがるが、それは幻覚ではないのかもしれない。
海にいってみると、浜辺に空き缶やゴミが浮いている。波に遊ばれている。上がったり下がったりして、いつまでも同じことを繰り返しているが、場所はいつも同じ所であり、位相は変わらない。ミクロでみると変化しているように見えるがマクロで見ると変わりはせず、いつも同じ動作なのである。お釈迦さまの手のひらで踊っているのである。
これは(無常)というものであろう。神や仏は科学が生まれる前から真実を捉えていたが、今回のコロナ事変に意味づけを与えきらない限り、力を取り戻すことはできないであろう。
菅氏が総理を辞め、岸田氏に変わったが、世間は新しい時代を迎えた気がしない。逆に株は四日間も下がり続け、海外の投資家は評価をしなかったし、国内もそうであった。菅氏の支持率は総理になったころは高かったが、やめる頃にはその半分にも満たなかった。コロナ対策に対してはマスコミが先導して彼を叩き、退陣に追いやった。
世間の評価では、彼は携帯電話の料金を三分の一にまで下げてくれ、次はNHKの受信料も下げてくれると期待していたのに残念だという意見が聞かれ、わたしもそう思った。菅氏がわたしとほぼ同じ歳で大学も同じであったということもあるが、彼は時代が前代未聞のコロナに襲われ、それを防ぐことだけでも精一杯だったとおもう。その点、岸田氏はコロナがひとまず収まった時にあらわれ、難関が去った頃であった。
今回の事態で感じるのは支持率も含めて数字へ考え方である。現代生活はすべて数字によってつくられ、成り立っているので数字をおろそかにしたり否定するj事はできないが、われわれは信仰にまで高めてしまっていることに気づかねばならない。小学校に入った頃から、数字への信仰を叩き込まれ、死ぬまで支配されているのではないか?ほぼ、神にも近い存在である。イエスであっても否定されることはあるのに、数字はなぜ否定されないのか?否定すれば現在の生活、生き方をすべて否定しなければならなくなり、それは体制の崩壊を意味することになる。思えば、数字は神以上の権威を持ってしまっているのである。
海外のニュースで、ある国の首相が金を出して支持率を操作させ逮捕されたことがあった。本来、厳正中立な手法で測定しているのであれば操作はできないはずである。
一つの例を出してみよう。日本はGNPは高かったのに、自殺率も高かったことがあり、現在、GNPはだいぶ下がったのに自殺率はあいかわらず、高い。GNPは国民の経済的豊かさを示して国民の幸福度を現しているはずなのに、なぜ、自殺率が高いのか?その矛盾を数字で説明することはできないのである。ここに数字の弱点がある。それは数字はある一面から見たものにしか過ぎないということでなのある。
こうなると数字によって世の中を動かすことができるのである。総理を追い落とそうとおもえば、彼の政治に対して不利になる数字だけを持ち出せば良い。今や、数字はりっぱな権力を持ってしまった。
町の仕事で、高齢者への弁当配りをはじめておよそ一年になるが、彼らの実生活に触れることができるし、自分の立ってる場所も見えてくる。およそ16軒を一時間半で回っている。運転手の行く先に従って回るので楽だし、気軽である。
配食先の老人たちとも顔なじみになり、毎週、顔を合わせている。昨日の未亡人は、いつも別れ際に、玄関に立って、いつまでも手をふってくれるきれいな人である。ただ、お金(300円)を出すときに手提げ袋をかきまわして財布を探し出し、その中から小銭入れを取り出し、百円玉がないので十円玉ですいませんと言って、出してくれる。女の人の服には大きなポケットがないので面倒だな、と考えたりしたが、昨日は家にどろぼうがいつも入ってお金がないのよ、と言って、十円玉をたくさん出し始めた。家の向かいに住んでいる老婆が服や靴や金をいつも盗んでいく、と言い、妄想ではないか?とかんがえながら、一人住まいの寂しさを考えた。次はいつも玄関先にベンツを停めている主人が、ご苦労さまです、と何度も言いながら百円玉を三枚、出した。高齢の妻の食事を作るのが面倒で、本人はベンツに乗って美味しいものを食べているようである。次は主人が奥の部屋で寝ているので、お弁当です!上がります、大声を出して、中に入り、玄関そばの部屋においてある三百円を手に取り、弁当を置いて、家を出た。次は配達先が変わっていて、いつもの老人は入院していたが、前回、おれは病院に入るのは大嫌いだ!と言いながら、歩けず玄関先で尻もちをついていた。それからどうなったかわからない。最後は、遠く離れた農家の老婆で、耳が聴こえないので、声をかけながら上がり、部屋の中を探して、食堂間にいるのを発見して、変えをかけ、弁当を食卓の上に置こうとすると、冷蔵庫を指差した。耳を近づけると、保冷剤を上に乗せてくれ、と言っているのがわかり、そのとおりにした。この人の様子を見てくれ、と職員に言われていたので、そのことを報告したが、そのうち、自分にその順番がまわってくることを知り、何年先までこの人と出会えるか?と考えたりした。
四十年ほど前、アルバイトで、ある宗教団体の信者たちを本部に送迎していた。その宗教に関心を持っていたわけではないが、講演を聞いていた時、ある言葉が印象に残り、今でも思い出すことがある。人間はタンパク質を食べなければ生きれない、というものであったが、他の生物を殺して食べなければ生きていけないことだとわかった。
高校時代まで親や親類、近所の者たちの考え方にイヤケがさしていた。家柄や学歴、職業、出自などで人を判断し、因習なども絡んで腐った水のようなものに見えていた。そこで家を出、東京に行って大学に入り、卒業してもアルバイトをしながら、二十年間も遊学していたようなものであった。何をやってもダメで良い女も見つからず、負け犬になって帰郷した。NHKの集金業務をして、退職し、老後を迎えた今である。畑を耕し、アルバイトをしながらなんとか食いつないでいる。自然の中に戻ったわけだが、川から魚は消え、魚釣りも魚とりもできず、田んぼにはアメンボもミズスマシもザリガニもおらず、草の一本も生えていない。これは私達が殺したのである。だが、スーパーで米を買い、新米を食べるときれいな白さで食べるのがもったいないくらい美味しい。
これは農薬のせいなのである。稲刈りも半日くらいで終えている。
殺さなければ生きていけない人間、なのである。
今年も自信を持って応募した小説が、第一次予選で落ちた。若い頃は、二度ほど第一次予選を通過したことがあったが、近頃は老いたせいもあって、ダメである。だが文章を書きながら、時代が読めたことは一つの収穫にもなった。
それは現代を取り巻く社会が見えた、ということでもある。暴力、戦争、差別は絶対に肯定してはいけないし、肯定するものは社会から追放されるということであり、芸術や文化もその権力からを免れられないということである。だが、芸術や文化はそれらの社会概念とは異なる世界のものであり、ある時はそれらと戦ったのである。本来、それらが良いこととか悪いこととか言う基準は本来、もっていないところで成立していたのである。これが平成、令和の時代になって完全に崩されたことがわかった。
自費出版系の出版社に文学賞を応募したら、当選はしなかったが、180万円出せば出版したいという話があり、その書類をよく読むと、不適切表現があれば削除させてもらいます、という文面があった。これはプロの作家に対しても了解をとっているはずである。
今、わたしが取り組んでいる作品は、奇形顔を持つ男のドラマであるが、そこで作者が主人公に良い結末を迎えさせてあげたいと考えたり、唇が裂け神社の狛犬のような顔、と書くことに不適切表現として戸惑うのであれば書く資格はないと思う。
近頃、問題作や話題作はすっかり消えてしまった。当然である。文学や芸術は牙を抜かれてしまった。あとは衰退し、死滅するしか無い。このことに何人かの作家は抵抗したが、大学の講師や食いぶちの職を与えられて抵抗力を失ってしまった。反骨者はいなくなった。
小説はこれまで社会に大きな影響を与えてきたがもうその役割を終えたのかもしれない。社会概念が検閲になり、出版社もそれを先導する役目を持ってしまい、戦後の抵抗精神をあれだけ賛美していたくせにこの(転向)に気づかず、問題提起もしなくなった。
本当の作品が出るとすれば、既成概念への(抵抗精神)を持つ者に違いないし、それが自分であればこれまでの不遇が報われるというものである。