ブログ - 20200503のエントリ
今日は、雨降りの一日であった。酒のつまみを買いに出かけたが、通りにはいつも見られる老女、老男の姿もなく、世界の消滅した感があった。コロナのせいであるが、寂しく想った。
そこで、このホームページの日記も力を入れて書くと、閲覧者数がすごく伸びることを思い出し、Kさんのことを書こうと考えた。このホームページの小説(銀ラメのハイヒール)に登場する人でもあるが、自分との感情の行き違いから疎遠になってしまった。今、どうしているか知らないが、わたしの思想に多大な影響を与えてくれた人であり、今も、このHPを読んでくれているかもしれない。
彼はリラックス法として、幽体離脱を実践していた。すごく疲れた時に、目を閉じ、体から意識を抜け出させようとすると、抜け出、目を閉じている自分の顔を見てる、と言った。水の中の像のようにグニャグニャして見えたと言った。そこで、彼が(脳を通さないのですごくリアルに見えた)と言った言葉が印象に残っている。普通、わたしたちは目で見て、脳で判断するが、脳をとおらなかったらどうなるのであろうか?脳には幼い頃から植え付けられた一般常識があり、それがフイルターになっているから、本当の姿を見てさせてはくれない。
事物が変な見え方をすると、脳は錯覚や幻覚として処理するのである。
夢の場合は、脳が眠っているからダイレクトに見る,つまり常識を外してみるわけであるから、子供の精神のように純粋な形で見えるのである。若い頃、夢精をするのはそれが現実以上に現実感をもっているからである。事実を知るためには既成概念に毒された脳はじゃまであり、カメラの方が正確なのである。
話は跳ぶが、自分は十年前に、心臓のバイパス手術を受けた。麻酔を打たれ、十二時間、死んでいたのである。集中治療室で目覚め、観察室に移されたのであるが、迷妄状態は残っていた。病室の右半分では看護婦が行ったり来たりし、おかしなことに、左半分のドアの方には、公民館の中が現れ出、受付の小窓が見え、掲示板に盆踊りやソフトボール試合の予告が張り出されていたのである。
これはおかしいな?と脳が考えると公民館の掲示板は消え、いつもの観察室の廊下に変わった。現の状態に脳の思考が入り、常識が入ったのである。
その出来事を自分なりに分析してみると、麻酔が残り、脳の半分は死に半分が生きていたのでもある。現在と過去が分離し、それぞれの世界が進行の形で現れたのである。入院する前、NHKの受信料集金の仕事をしていたわたしは三か月前に宗像市池田を訪れ、受信料の調査と契約で回ったのであった。そこは母の実家があり、幼い頃、預けられて、長い間、生活したのですごく懐かしかった。その時に公民館で、受信料の説明会を設ければ良い、と考えたのであった。
それが願望として残り、現実と重なったのである。視界の右側では看護婦が行ったり来たりしていた。
現実と過去は、因果関係を持って続いているのではなく、それぞれ独立して平行状態で流れている、Kさんは、よく言ったので、思い出される。過去は虚数のように存在しているのである。分化ではなく、それぞれが存在感を持っていて流れ、重なり合う、量子力学の理論である。虚数は実数ではないが、存在として用いることによって難解な問題を証明することができる。
神も虚数ではないか?影も虚数ではないか?あの世も虚数ではないか?コロナも人類発展の虚数ではないか?など、かってに想像していくと、我々には未知の分野がすごく残っていることが分かる。
そこで、コロナ禍は大きな刺激を与え、きっかけを作ってくれたのである。コロナは人間たちの数百万倍の速さで進化していると言うから人間は負けてはいられない。
いずれにしても、コロナ後の世界はまったくちがう考え方が登場するに違いないし、そうでなければこの世の救いは見いだせない。我々はコロナに追われるだけ、まだ、この世をじゅうぶんに理解していないのである。