ブログ - 20180811のエントリ
毎週、聖書の個人レッスンを受け、日曜日には礼拝に通っている。およそ、六か月間、続いていて、学ぶことも多く、聖書・キリスト教の偉大さに感動している。ギリシャ時代には国教にまでなり、王権神授説にみられるように政権さえ正当化のためにキリスト教の名を借りようとしたことは歴史的な事実でもある。
昨日は個人レッスンを受けた後に、中村さんも神を信じるようになりましたか?とたずねられた。聖書や神の教えは素晴らしいが、自分の父母より神の方が本当の親だ、というレベルに至る親近感は残念ながら出来ていません、と応えた。一昨日は、近くにある墓地の中村家の墓に行った。汗まみれになって草刈り機で周りの草を刈り、草をむしり、枯葉を取り除いた。今日は花を添えに行き、拝みに行くつもりだ。一神教であるキリスト教の洗礼を受けたとなると、そんなことはしてはいけない、仏壇も処分しなさい、ということになる。自分は基本的には無神論者であるが、父や母の存在の否定はできない。父は淫蕩癖があり、母から悪魔と陰で呼ばれることもあったが、自分にとっては父親であり、自分はサタンの息子であろうし、それは人生経験にも反映されている。万引きをしたこともあり、殴り合いもし、酒・煙草・バクチもやり、親友の女を盗ったこともあった。
聖書やキリストを学んでいることは、懺悔、なのであり、自分がサタンであることが十分すぎるほどわかってきて、同時にサタンの存在意義もわかってくる。神にとっては対立物であるサタンが必要なのであり、サタンと言う悪い奴がいるから、それと闘う神が居ると言う筋立てになる。アメリカと悪の枢軸国との関係である。料理の世界においても甘い、辛い、渋い、酸っぱいなどの味があり、芸術においても陰影があるのと同じである。対立物を否定はしても、消すことは出来ないのである。
また、罪人がいるから宗教が存在しているのでもある。