ブログ - 20180806のエントリ
先週の土曜日、日曜日とキリスト教某宗派の福岡大会に参加し、講演を聴き、ビデオを観、体験談を聞いた。午前九時半から午後五時ころまでで、千五百人ほどが参加し、皆、温厚な笑顔で顔を合わせ、握手をし、話しを交えた。
世界各国での兄弟・姉妹たちの活躍が大会の中心テーマであったが、ビデオ視聴の中で、建設した教会が放火されたり、その宗教を信じているだけで警察に逮捕・投獄されたり、他宗派から石を投げつけられたり、一夫多妻制を拒んで肉親たちから非難されたりなど、日本国内では考えられないような世界の現実を見せつけられた。わたしは信者のレベルには達していないので、客観的な眼差しでビデオを観、一連の流れにその宗派の思想を読み取ろうとした。
(真の勇気を示す人は自分に頼らない)
その講演のテーマで講演者は、サタンが人間に独立と利己主義を与えた、と言った。わたしは強い刺激を受け、首を傾げた。アダムに禁断の木の実を食べさせることで、サタンが人に利己主義を与えた、ことは納得できるが、心の独立を与え、それは悪いことである、と講演者は言ったのである。私の世代は自由と民主主義の中で育ち、それらは封建主義から奪い取った価値の高いものである、と教えられ、信じてきたのである。それを否定されたのである。
自分の独立心を捨て、神に頼れ、ということである。
「先輩にうかがいますが、金がなくなったら,自分の意志で仕事を探し、稼いだ金で生活するのではないですか?独立はいけないことなのですか?」
わたしは聖書を教えてくれている先輩に尋ねた。
「神に祈ってお願いするのです。そうすれば教えてくれます」
「わたしは信仰が遅れているので,神の声は聞こえてきません」
「そのうちに聞こえてくるようになります」
「声が聞こえてくるようなったとしてもどれが神の声かわかりません」
そんなやりとりをしたが、どうも理解出来ず、もう一人の先輩に尋ねた。
「それはもちろん、自分の意志で探し、うまくいくように神に祈るのです」
彼は言い、わたしは納得したが、そうなるとそれは自分の独立した意志ではないか?独立心を捨てるということと一致しないではないか?
もう一つの別のキリスト教宗派で聞いたことが思い出された。
(個人主義が人間を不幸にした)
年老いて孤独で貧乏な自分は最近、その言葉がわかるようになっている。
自分をすべて捨て、神に頼れば、楽であろうが、その境地になるには余命が短い。
そんなことを考えながら、妙なことが閃いた。ネットに検索を出せば、何でも答えてくれる。金がない、女が欲しい、仕事が欲しい、地球はどのようにして出来たか?聖書の造られた目的は何か?など返事のない項目はない。もしかすると、ネットがすでに神になっているのではないか?あるいは超えてしまったのではないか?
なんとも大変な時代である。
もう一度、大会の講演内容を振り返ってみた。その中で、その宗派の布教活動をしたがために教会の焼き討ちにあい、石をぶつけられ、逮捕・投獄までされたのである。それを、神は黙って見ておられたのか?全知全能の神であるなら、それらを阻止するのは当然で、簡単であったはずではないか?なぜしなかったのか?
今週、先輩信者から聖書の講義を聴く予定であるから、問いただしてみようと思う。たぶん、神は信者たちの反応をうかがい、試すために助けなかった、と答えると思う。禁断の木の実の場合でも蛇がアダムをそそのかして、悪の実を食べさせたというが、神が悪の木の実を植えなかったなら、人間はサタンにならなかったのではないか?
聖書は確かにすごい作品であるが、わたしの貧しい知性とどこまで戦えるか楽しみである。