ブログ - 201406のエントリ
ペニスは排泄器官であると同時に感覚器官であり、性交時の道具でもある。性交の快感を記憶し、さまざまなバリエーションをストックし、女との思い出さえアルバムに残している。眼、耳、鼻などは見たり聴いたり匂ったりして脳に情報を伝え、判断を仰ぐ単純な器官であるが、ペニスは脳とは別に追憶、思考、思索、夢想をし、脳にちかい働きを持っていて、その点では第二の脳である。女の膣や子宮も同じである。
歳を取ってくると性欲も衰えてくる。それはションボリしたペニスに対して親である脳が心配し、まさに息子の先行きを案じているのに似ている。若い頃愛しあった女たち、その思い出を二人でたぐりよせてイメージに酔ってみたり、悪所に通って病気にかかり悩んだこと、エロ雑誌やビデオをみて楽しんだこと、それはそれは人生と同じ長い旅路があった。忘れはしない。
脳の中で性感が芽を出した時、ペニスにまで伝わるには体の半分の経路があるし、勃起するにはさらに時間がかかる。若い頃であれば時空を越えてダイレクトに飛脚は走ったが、67歳の歳になると、飛脚は樹海の中をさ迷うようになる。まさに樹の海、その海底である。見上げれば林立したヒノキが空を塞ぎ、人一人が歩ける地面は石ころだらけで、樹の根が鎖骨のように飛び出して足にぶつかり、枯葉に滑りながら暗い中を歩き続ける。前方から得体の知れぬ者が現われそうな恐怖の中で飛脚は行者にもなって、密書を届けようとする。誰にも見せられない密書。三叉路に入って道筋をまちがえ、まちがえたことにいつまでも気づかないで山の頂上へ向かっていってる場合だってある。
密書をやっとの思いで依頼者に届けた時の喜びはなんとも言えない。おたがいに労をねぎらい喜びをわかちあい、後は依頼者が家の中に戻って紐を解き、プレゼントの中味を見て顔を輝かせるだけである。
わたしは多くの女から拒絶反応を受けた。要するにエロっぽい(スケベな)眼で見たからという原因だが、今になってそのことがはっきりわかった。
アパート住まいをしていた頃、隣部屋に越してきた女と関係ができた。翌日彼女の部屋を訪問すると、靴脱ぎの板間でいきなり頬を平手打ちされた。別に彼女を視姦してたわけではなかったので呆気に取られていたが、ジイサンになった今、わたしのエロイ目線に警戒を持ち腹を立てたのだ、とわかる。初めて喫茶店で向き合った女がいきなり立ち上がり、帰ります、と言って店を出たことや病院に身内を見舞いに行った時、顔見知りの看護婦に出会い寄っていくと、お見舞いの人が待ってるわよ!と言って遠ざけられたことなど経験がたくさんある。
わたしが物欲しげな眼で見たわけでもなかったから、腹が立った。
女に嫌われる人生に寂しさを覚えることになったが、逆にモテる男であった場合は大変だとも思う。女に付きまとわれたりトラブルになったりで人生を女に振り回され、結局は女への興味・関心を失いあるいは自分の身を女から守ることになる。
女は自分を誤解するので面倒な種族だと考えたこともあったが、この世は男と女しかいないので無視するわけにはいかない。エロスの世界があることはこの世に素晴らしさを与えていることはまちがいない。
男女の比率はほぼ半々であり、普遍的に割合が保たれている。体内の胎児は初めのころ、男でも女でも無い中性である。男になる場合はどこからか細胞が現われ下腹部に伸びていって精嚢が出来、女の場合はそのようにして卵巣が出来、ペニスや子宮が形作られていき、男と女ができあがる。
誰の指示だろうか?男と女の種別を半々にするために選ぶのは誰だろうか?弱小な生き物は天敵に食われる数をあらかじめ把握して出産数を決めているのがそれは誰の指示だろうか?どんな仕組みでそんなことができるのだろうか?
草食系の男女をつくったり性的障害者をつくったり戦争を絶えず起こして、人口増加を制限しているのは誰だろうか?
そんなことを思索しているとこの世に創造主が存在することを知ってしまう。はやく出会いたいし、生まれたことを感謝するばかりである。
無職の身なのに一日一日がすごく速く過ぎていく。一週間なんてアッというまに終わり、もう土曜、日曜がくるのかと時間に追われるのではなく、時間に追い越される感じがする。朝が来て陽が射し、夜が来て陽が落ちる。地球は半回転したわけだ。毎日毎日、疲れることなく同じように周りつづけているわけだ、誰に指示されてるわけでもなく、まるで心臓のように不思議な命。地球は物質なのだが命の塊を感じてしまう。物質の世界で動いているのは地球だけではなく、電子・原子の世界でも同じである。
地球が疲れて動かなくなる日があるのではないか、と考えてネットで調べたが、そんなことはないと書いてある。太陽が爆発して破滅する日はあるが地球にはない、けれども太陽が破滅すれば当然地球の生物は全滅するとも書いてあった。
わたしの寿命は長生きしたとしてもあと10年くらいであろう。わたしが死んでも地球は生きている。しかし、わたしが死ぬ時、わたしは地球の命を感じることが出来ず、地球もいっしょに死ぬのである。
公務員とは理解できない存在である。
先日、町役場の総務課に行った。除草剤散布禁止を陳情したいからどうすれば良いのか?と女性職員に尋ねた。素案を出していただければこちらで審議して議案にします、という返事でしたので何故すぐに議案にならないのか?ときくと環境保護法などの法律との整合性の判断もあります、と答えたのでわたしも納得しました。
そこで日頃考えていたことを言ってしまいました。あなたのこの仕事は公務員でなければ出来ないものですか?と聞くと、それは地方公務員法で決まっていますから、と答えたので、それはわかっていますが民間社員でしたほうが安い人件費で出来ますよ。私達は高い税金を払う必要がなくなって助かるのになぜ公務員のような高級取りにさせるのか不思議でならない。課長係長クラスは現在のままにしてあとは法人委託を入札で採用すれば良いではないか?そうすれば人件費は安くてすみ効率も上がり創造力も発揮して職場に活気がでるではないか。
彼女はわたしの言葉に警戒していました。
現自民党政府がJAの解体、民営化に二の足を踏んでいるのはJAの組織票への未練があるからだ。組織票とは利権票であり、JA職員の生活・利権がかかっているのだが政府は国のことよりも自分の政権維持のほうが大事なのである。公務員にも自治労という40万人体制があり政府のやりかた次第では票がどの党に転ぶかわからない。だから、官から民へ、と掛け声だけはかけるがなかなか進めない。国鉄がJRになり、電電公社がNTTに民営化してすごく変わった。国民への対応は民間並みになったし、経費削減もし、効率化変革もどんどん進めているのに学校、警察、刑務所、消防署、高速道路道路の民営化はいっこうに進まない。
わたしのような高齢者であっても化学をもう一度勉強したいと思えば高校に入れるような社会になればこの国は元気がでると思うのだが、変化を望まない政府と国民であれば未来は縮んでいくばかりである。
家のすぐ上で電車が走っています。体を動かしたり考えることもない時には電車の音に人間の感情を感じ取ります。先ほどの貨物列車は深夜にゆっくりとすごく慎重な走りを伝えてきました。事故を起こした経験でもあるのか行く先に困難が待ち構えてでもいるかのような慎重さでしたが無事に着けたかどうか考えたりしました。急行列車は勢い良く走って、去ります。まるで少年のようです。旅先が遠い電車はそばの駅を出てゆっくり出、さあ頑張るぞ、と勢いをつけていきます。蒸気機関車がもし走れば蒸気を吐き出し、頑張るぞ!頑張るぞ!とじょじょに力づけながら、時には警笛を鳴らし煙突から煙を吐きながら巨像のように豪快に走ることでしょう。
それに引き換え、駅そばに道路をつくる工事音は不愉快な雑音ばかりを出します。ヒノキをチェーンソウで切る音は切られる木の悲鳴を伝え、地面を叩くユンボの地響きは地面の鳴き声を伝えてき、破壊されるものたちの怒り、叫び、悲鳴を起こしてわたしに絶えられない気分を与えます。
機械は特に動いている時には生命体なのです。人間と同じ感情を持っていて喜んだり考えたり悲しんだり嘆いたりしています。かれらを非生命と分類しているのはおかしいです。蒸気機関車のファンがあれだけいるというのは彼らがそれを生命体として見ているからです。
機械たちもどんな仕事をさせられるかでいろんな感情を出しています。人間達を運ぶ時は楽しく走り、荷物を運ぶ時は大儀そうに走り、木を切ったり地面を削ったりする時は悲しい声をあげます。人間の感情とまったく同じであるのは不思議なことで感情や感性は人間しか持たないという考えは人間の思いあがりしかすぎません。
山の道を毎日歩いています。往復で1時間くらいですが、すっかり嵌ってしまいました。歩いた後の爽快感は素晴らしく体に元気がでているのがわかります。以前は海岸線をサイクリングして良い気分になっていましたが、森にはそれとは違う雰囲気があり、(生命系)という本を読んでその原因がわかりました。ヒノキや竹、マムシ草、ミョウガ、ヤツデなどの植物に囲まれ、マイマイカブリ、ゴミムシ、カエル、鳥、イノシシなどの多様な生物がわたしに時間と空間の広がりと連鎖を伝えてくれるのです。わたしは昔、カエルでもあったのです。地球上の物質から生命が産まれた時、それは一粒か一つのDNAだったのです。それが分岐し系統発生していき、海藻、魚、イモリ、昆虫、植物、哺乳類などに代わり、進化していったのです。太古時代、古生代、中生代などのはるか昔の世界で系統をともにしていた身内たちに囲まれ、わたしという生命が彼らと交感しながら大宴会を開いているのです。言語というツールに頼らず体の元素を反応させながら挨拶をし、(ぼくはまだゴミムシのままだけど君は人間に進化したのだね。楽しいかね?ぼくはゴミ漁りの毎日だけど食べ物にも不自由しないし、空気の良い森の中で一生過ごせて幸福だよ)という言葉が聞こえてきたり、(近頃は人間がまく除草剤でカタツムリが減って困ってるんだ)というマイマイカブリの言葉が聞こえてきたりしてにぎやかです。わたしの生命は昔とかれらの連鎖の線でつながっており、山の中でそびえ立っているヒノキとも親戚なのです。まわりの生き物達すべてがわたしの親戚であるから孤独が癒され、楽しい気分になり宴会から帰宅したような気分になるのです。
(自然は皆、兄弟だから楽しい!)
一昨日は岡田君も言ったように貴重な体験をしました。自然農法をやってる人がいるから田植えの手伝いをしないか、と誘われて岡田君といっしょに岡垣町の原に行きました。波津の海岸に近いところで、そばに湯川山があり、のどかな田園地帯でした。
Qさん夫婦と手伝いの男6人が集まり、長靴をはいて田んぼの中に入りました。小学生の頃、自宅の田んぼの田植えをしたことがありましたが、60年ぶりに入る田んぼでした。昔は素足で入っていたのですが長靴で入るとズボッた泥から足が抜け出ず、ブッ、ブッとオナラをするような音をあちこちで出しながら、皆、苗を植えていきました。ジャンボタニシが田んぼの中にいました。その赤い卵があぜ道に産みつけられていたり、交尾したシオカラトンボが飛んでいたり、田を囲む溝には山水が流れていて、わたしの中から幼少時の気持ちがよみがえってこました。午前9時から午後2時までで一反の広さを植え終わりました。腰が痛くなりましたが、昼食はお弁当を皆で広げて食べ、Oさんの山で取れた大きなビワを食べ、談笑しました。ビワは肥料もやらないのに普通のものの2倍はあり甘味もすごく良いのです。こあたりはビワの名産地ですが、専業者に負けないものでした。
昨年は田んぼに水を入れず、自然農法にしたがって固い土に穴を開け一本一本を植えていき、一人で一ヶ月もかかったとOさんは言っていました。それにまわりの営農者たちは殺虫剤、除草剤をまけ、と言いますが彼は笑って彼のやりかたを通しています。
水をいれたままの田んぼが上にあるというので行ってみました。昔懐かしい田んぼがありました。薄緑色の藻が水面に張り、小さいメダカがたくさん泳いでいました。その上にレンコン畑があり、まだスイレンの花は咲いていませんでしたが、びっくりするような水生動物を見つけました。アメンボ、カワエビ、アカハラ、タイコウウチなど、今ではこの田舎でも姿を消したもの達が動き回っていたのです。
Oさんは言いました。まわりの田んぼが殺虫剤や除草剤をまいているのでその水が自分の田んぼに入らないようにせき止め、かれらが散布を止めたころ、水を入れると。(真理はいつも異端の側にある)ようです。彼の親戚に町会議員の議長がいますが、開発賛成派であちこちの地面をコンクリートで埋め、山や田んぼを壊しています。こんな中でOさんが笑顔を絶やさず、自然を護っている姿にはただ敬服するだけです。
スポーツ新聞に次のような記事が載っていました。
ある過疎地域に暴力団関係者が住民井移動をし、投票権を得て、彼らの中から町長を出そうとしている。国からの補助金も自由に使えるし、上納金(税金)だって多い。このままだと暴力団員の町長が出現するかもしれない、と言う。関係者というのは構成員、準構成員、関係者だけでなく、彼らの力で生活保護をもらっている者が多く、大阪の釜ケ崎の住民が占められていると言う。
すごく現実性の高い内容だった。初めてその記事を読んで驚き、考えた。地方自治体の場合、投票率は30?50%くらいなので、有権者数の10?20%も取れば当選の可能性が出てくる。闇世界の人間達が増え始めてることを一般人が知れば転出する者が増え、転入者は減ってくる。ますます闇世界の人間が増え、そこは暴力団の町として知れわたるにちがいない。アメリカのある州で同性愛婚が認められ、同性愛者たちの州として知れわたったように。
わたしはこのケースを良い傾向でもある、と捕らえる。現在わたしの住む岡垣町は利権政治に支配され、乱開発による自然破壊と税金の無駄使いに侵されていますが、自然愛好の住民が集まれば緑豊かな街づくりができるということなのです。本来、地方自治体はそれぞれが個性を育てて街づくりをすべきなのですが、多数決原理にしたがって町長はじめ町会議員は開発という名のもとに町を食い物にしている。建設会社およびその関係者に仕事をやり、票をもらうと言うブローカー活動なのです。
全国の地方自治体はどこに行っても同じような町ばかりで面白みがない。ここは自然を愛する町、ここは音楽を愛する町、ここはスポーツを愛する町、ここはレトロの町、などと個性をなぜ発揮しないのか不思議でならない。それは国体自体の問題でもある。物心つく頃から、有名校と受験、偏差値に洗脳され、自分の個性など無視されるファシズム社会であれば多様性のある未来なんて考えつくはずもない。
暴力団員ですらそのようにして街づくりに励んでいるのだから、一般人だって考え付くことであり、それは国づくりの流れもなるのである。
人生を67年間も生きていると、不思議なことに出会います。男と女の関係、結合などはその最たるもので、私なりに見聞したことをもとに法則を探し出してみました。
(共同生活型)ー経済的にも性的にも二人が結びついたほうが合理的だと判断し、あまり難しいことを考えずに成り行きでいっしょになる例です。もっとも安定的で長続きしますし、このケースは意外と多いようです。
(恋愛型)?文字通り、恋愛から結婚にいたるケースで理想的のように見えますが、恋愛感情が醒めた場合を考えると少し危うい感じがします。これに(補完型)の要素が加われば安定するはずです。
(友達型)?趣味や嗜好に共通する部分が多く、時間を忘れておしゃべりやテレパシーの交感をつづけるタイプです。結婚生活というある意味でむずかしいことをつづけるには我慢や辛抱も必要だと知れば長続きします。
(補完型)?性格や嗜好が対照的なのですが、それを見越して補完しあう関係です。一方が繊細でロマンチストで、他方が図太い生活派というタイプで一つになれば安定して収まりますが夫婦喧嘩はよくします。年取っていけばおたがいに中和して落ち着いてきます。
(性欲型)?おたがいに性感や性欲が強く、体の結合度も強いのですが気持ちの上での結びつきは薄いようです。そのために性欲が減退した時には空しい時間を持て余すことになり、そこをどう乗り切るかが難点です。
(依存型)?姉さん女房、と呼ばれるタイプで、男は痩せた小男でイジイジした性格が多い。どこに魅力があるのか疑いたくなりますが、そこが魅力なのです。女の母性愛をくすぐるのでしょう、わたしがいなければこの人は生きていけない、という負圧に女は惹きつけられるのです。ノミの夫婦、と呼ばれデブ女と小さな男がくっつく場合があり、女の側は依存されているように見えながらその状態で実は依存してもいるのです。ある意味では(補完型)なのでけっこう長続きするようです。
(服従型)?封建時代や封建社会にみられる型で、女が暴力や金の力で服従させられているタイプです。女の生活を支配されているのでその体制から抜け出ない限り、自由はないがこの型は日本においても長い歴史を持っています。借金のために風俗にみずから身を売ることは現代でもあります。
(片割れ型)?これはわたしの考え出したタイプです。性格や思考法がまったく正反対で絶えず相手の存在にノイズを起こす対立状況でありながら、また絶えず別れ話を持ち出しながら結婚生活をつづけ、死ぬまで一つ屋根の下で暮らす夫婦です。もともとは一つであった細胞が何かの理由で二つに分かれたため、二つの分身が元素のように独立して結合してるの状態です。
以上、書いてみましたがまだいろんな型あると思いますので男と女の結びつきをもう一度考えてみると面白いものです。
イジメ事件はあとをたたず、イジメられて自殺する者が多い。老人でなく青少年たちが自殺するのだから、悲惨である。日本は世界一イジメが多く自殺者もそうである、というデータがあるかどうかしらないが事実だと思う。単一民族、単一言語、ほぼ単一宗教、島国だとなれば囲いの中で飼われているサル山に等しい。ここで服装が違う、歩き方がおかしい、肌の色がちがう、愛用してるものがちがうとなれば多民族国家とちがって異質性が目に付き注目されることはまちがいなく、弱者というハンディがつけば格好こ餌食になる。わたしなど普通の人と考え方が違うし激しい性格なのですぐに(変人)というレッテルが張られますが、(レア世界)に改宗(?)したせいで今では(Rare is great!)逆にすごい素晴らしいという境地です。イジめられる人は少数派ですが少数派こそ希少価値がると考えて自分の資質の中に宝石を探しましょう。
さて40年前の話になります。日産自動車座間工場で自動車組み立ての仕事をしていたわたしは契約期間を終え、相模原高等職業訓練校入学しました。失業保険の給付が継続出来るし自動車の構造を勉強も出来るからです。自動車整備かは一クラスしかなく、ほとんどは大学に入る学力や金がない少年がほとんどでしたが、中には仕事を辞めて技能を学ぶ社会人も4人ほどいました。座学と実習が始まり、学校生活にも慣れてきましたが外部世間の縮図がクラスの中に根を下ろし始めました。
サトシというデブで頭の悪い少年が目に付いていきました。人なつっこく素直な性格でしたが、試験の成績はいつも最下位で(電車マニア)で、大食いだったのです。授業は黙って聴いていましたが、それが終わると、小田急線の車掌のまねをして、(ロマンス・カー、箱根湯本行きがただいま到着いたしますのでホームにいらっしゃるの方は気をつけてください)となめらかな口調でしゃべり、電車の警笛や走行音のまねをするのです。次はSLになって、蒸気が吹く音を口から出しながら両手を持ち上げ脇のあたりで回しながらクラスの中を駆けるのです。「サトシ!ウルセー!」と誰かが言いました。サトシの高校時代の同級生がいたのでその時代の関係を引きずっていました。サトシは10時頃に弁当を食べ、昼食時間になると弁当を広げている友達を回り、(お手元をおねがいします)と言って、おかずを自分の空の弁当箱の中にいれてもらい食べて回るのです。彼の父親は一流会社の管理職で裕福な家なのにです。サトシは汚ねえ!バカ!などの罵詈雑言を浴びせながらもどこか親しまれている部分がありましたが、二学期頃から悪ガキが彼を叩き、サトシは涙を見せることがありました。
わたしは無遅刻無欠勤でした。失業保険が入る生活に満足し、自動車の構造や整備に興味をおぼえていましたので成績もトップでした。特にキャブレータの構造には驚嘆しました。坂道を上ったり加速をする時には負圧状態を作って濃い混合気を送る仕組みなど西欧人の精巧な合理的主義には感じいるばかりでした。ただ暴走族も混じったクラスの雰囲気には年齢のちがいもあって打ち解けられないものがあり、かれらもわたしにそれを感じていました。皆が整列している時に隣の生徒がいきなりぶっつかってきて、びっくりして見ると彼は隣の者に目を向けてとなりがぶっつかってきたというポーズを取るのです。最初はなにかあったんだろうと軽く考えていましたが、故意にやっていることがわかってきました。わたしはからかわれていたのです。
わたしとサトシは非常に親しく、彼をわたしのアパートに呼んでご馳走をつくってやったこともありました。わたしのグループは4人で、3人は高卒で弱弱しくイジメられそうな仲間でした。
ある日、決定的な出来事が起こりました。夏の暑い日でした。昼休みの時間で、生徒達はグランドに出て寝そべったり休んだりしていました。サトシはその中にいて、(電車ゴッコ)をしていました。シュシュポポ、と言いながら人垣の中を走り回っていました。サトシ!ウルサイ!の声にもかまわず、夢中になっていたのです。身長が180センチもありサッカーのうまいOが立ち上がりました。顔もいかつく見るからに暴走族タイプの男です。彼は、ウルセーって言ってるだろう!というと体を捻り、回し蹴りをサトシの腹にぶち込んだのです。ボーンと太鼓を叩くような音が響き、サトシは倒れました。
皆、見ているだけで、サトシに駆け寄る者はいませんでした。
サトシは倒れたままでした。
指導員(教員)たちもイジメのことは知っていましたが注意することもなく、逆に悪ガキの機嫌をとる雰囲気がありました。倒れたサトシを見て、わたしに憤りが起こりました。一撃必殺の空手の心得はある自分はOにタイマンを張るべきではないか!
ところがわたしは皆と同じように傍観するだけでした。
サトシはしばらくして立ち上がり、クラスの授業に戻っていきました。
一ヵ月後にサトシは退学しました。
その後、彼とは無縁でした。
二年後に小田急線の電車の中でサトシに会いました。友達と二人で座席に座っていて元気そうでした。自動車メーカーの現場で働いていると言いましたが、わたしを懐かしがる気配はありませんでした。
この出来事を今でも思い出します。
イジメはいつの時代にもどこにでもある。動物界にもある。鶏小屋に新入りの鶏を入れると古参の鶏が新入りを突き、殺されることもある。集団の防衛本能とでも言うべきだろうか?
わたしがその訓練校で年下の少年にからかわれた頃、もう一人の社会人の男もそんな目にあいはじめたのです。同時に私自身がサトシをからかい、悪ガキに同調する素振りを見せたのです。そこに(イジメなければイジメられる)構造を感じ取るのです。多くのイジメ自殺事件で関係者が自殺を食い止められないのはそこに原因があることに気づくべきでしょう。傍観者はイジメているのと同じです。