ブログ - 20130729のエントリ
私の父は60才後半で脳梗塞をわずらい、70才半ばで亡くなりました。彼は幼くして父母を亡くし、母の実家に養子として入籍しました。母の愛情を知らない、と本人は言っていましたがそのせいか多くの女を愛し、酒に溺れた一生でした。
いま、私は66才になって父のことを思い出します。若いころは反面教師とし批判していましたが、この歳になると彼の生き方が自分とある面で重なってよく見えてきます。彼は脳梗塞にかかって(私は心筋梗塞にかかりました)右半身が不随になり、車椅子の生活を送り、トイレも入浴も食事も母の世話になっていました。
車椅子を押して庭の散歩をさせていた母の姿が消えると、父は決まって(母ちゃん!)と叫びました。わたしはその声を今でも幻聴で耳にすることがあります。
(母ちゃん)という言葉は子供が母親を呼ぶ時の呼称です。それを夫が使うことはその世代では珍しくはなく、一般世間の夫たちも(うちの母ちゃんがうるさいけ)などと普通に使っていました。今、妻にそんな呼び方をするのはよほど古い世代の男性でしょうし、近頃耳にしたことはありません。
日本人は農耕民族で母権制の時代があったので、マザコンというのは普通の精神状態であったのでしょう。妻を母と重ねて慕う気持ちがあったのです。
ここで話が飛躍しますが、わたしの脳裏に焼きついているのはヒッチ・コックの(サイコ)という映画なのです。(サイコ)とは(サイコロジイー心理学)が由来ですが、マザコンのノーマンが、彼の管理するモーテルに泊まりにきた美女をナイフで殺害するというストーリーです。心理サスペンスの最高傑作であり、あまりの恐さにアメリカのモーテルに宿泊する客が激減したとも原作の後書きに書いてあります。
主人公のノーマンは亡くなった母とモーテルのそばの家に住んでいて、というより母親は亡くなっているのに幻聴、幻覚の世界で彼女といっしょに住んでいるのです。食事をいっしょにし、おしゃべりをし、日常生活を二人送っています。そこに金の持ち逃げをした美女が現れ、独り者のノーマンは惚れてしまい、部屋の浴室でシャワーを浴びている彼女を殺してしまうのです。
わたしは映画のシーンにあるように女を殺したのはノーマンだと信じていましたが、最近はちがうと思うようになりました。つまり、女を殺したのは息子のノーマンの心の中に入る込んでいる(母)だったのです。彼女は息子が別の女を好きになることが許せなかったのです。母と息子のつながりというのはこれほど深く強く、恐いものなのです。狩猟民族のマザコンが裏返った場合、その残酷さは農耕民族の比ではありません。
山口県の山村で五人の老人を殺した事件が最近ありましたが、あれも犯人一人がやったとは思えません。誰かがあるいは何かが入り込んでいたにちがいありません。
彼に(母ちゃん)と呼べる女がいればあんな事件は起きなかったでしょう。他人でも年上の人であれば、お兄さんお姉さんお父さんお母さんと言うことがありますが、彼にそう呼べる人がいれば事件は起きなかったはずです。日本人の変わりように寂しい気がします。人類みな兄弟、と言う言葉がありますが、日本人みな兄弟でもあるのです。