ブログ - 201307のエントリ
私の父は60才後半で脳梗塞をわずらい、70才半ばで亡くなりました。彼は幼くして父母を亡くし、母の実家に養子として入籍しました。母の愛情を知らない、と本人は言っていましたがそのせいか多くの女を愛し、酒に溺れた一生でした。
いま、私は66才になって父のことを思い出します。若いころは反面教師とし批判していましたが、この歳になると彼の生き方が自分とある面で重なってよく見えてきます。彼は脳梗塞にかかって(私は心筋梗塞にかかりました)右半身が不随になり、車椅子の生活を送り、トイレも入浴も食事も母の世話になっていました。
車椅子を押して庭の散歩をさせていた母の姿が消えると、父は決まって(母ちゃん!)と叫びました。わたしはその声を今でも幻聴で耳にすることがあります。
(母ちゃん)という言葉は子供が母親を呼ぶ時の呼称です。それを夫が使うことはその世代では珍しくはなく、一般世間の夫たちも(うちの母ちゃんがうるさいけ)などと普通に使っていました。今、妻にそんな呼び方をするのはよほど古い世代の男性でしょうし、近頃耳にしたことはありません。
日本人は農耕民族で母権制の時代があったので、マザコンというのは普通の精神状態であったのでしょう。妻を母と重ねて慕う気持ちがあったのです。
ここで話が飛躍しますが、わたしの脳裏に焼きついているのはヒッチ・コックの(サイコ)という映画なのです。(サイコ)とは(サイコロジイー心理学)が由来ですが、マザコンのノーマンが、彼の管理するモーテルに泊まりにきた美女をナイフで殺害するというストーリーです。心理サスペンスの最高傑作であり、あまりの恐さにアメリカのモーテルに宿泊する客が激減したとも原作の後書きに書いてあります。
主人公のノーマンは亡くなった母とモーテルのそばの家に住んでいて、というより母親は亡くなっているのに幻聴、幻覚の世界で彼女といっしょに住んでいるのです。食事をいっしょにし、おしゃべりをし、日常生活を二人送っています。そこに金の持ち逃げをした美女が現れ、独り者のノーマンは惚れてしまい、部屋の浴室でシャワーを浴びている彼女を殺してしまうのです。
わたしは映画のシーンにあるように女を殺したのはノーマンだと信じていましたが、最近はちがうと思うようになりました。つまり、女を殺したのは息子のノーマンの心の中に入る込んでいる(母)だったのです。彼女は息子が別の女を好きになることが許せなかったのです。母と息子のつながりというのはこれほど深く強く、恐いものなのです。狩猟民族のマザコンが裏返った場合、その残酷さは農耕民族の比ではありません。
山口県の山村で五人の老人を殺した事件が最近ありましたが、あれも犯人一人がやったとは思えません。誰かがあるいは何かが入り込んでいたにちがいありません。
彼に(母ちゃん)と呼べる女がいればあんな事件は起きなかったでしょう。他人でも年上の人であれば、お兄さんお姉さんお父さんお母さんと言うことがありますが、彼にそう呼べる人がいれば事件は起きなかったはずです。日本人の変わりように寂しい気がします。人類みな兄弟、と言う言葉がありますが、日本人みな兄弟でもあるのです。
わたしが小・中学生の頃だった。国政や市町村の選挙がちかづくと、車のスピーカーから(清き一票!清き一票をおねがいします!)の連呼がいつも聞こえてきたものだった。
今ではまったく耳にしなくなった。あれから50年はたつだろうが、選挙が金まみれになった現在に(清き一票!)を出すには出せなくなったのだ。金まみれである方が政権にとっては都合が良いのである。なまじ貧乏人から政治家が出て世の中を変えてもらっては困るのである。だから選挙制度改革などにとりかかりはしない。民主的封建制度こそかれらの狙いである。
目の前にニンジンさえぶらさげておけば票は取れることをアベノミクスは証明した。参議院選挙が終わった今、目の前には(行きは良い良い帰りは恐い)の状況が待っている。食料品の値上がり、消費税導入、財政赤字の増大、社会福祉への負担増など不安材料が目白押しである。
(清き一票)の気持ちで投票しておけば良かったのに、なんてならないように願うばかりである。
目先のニンジンではなく地球的規模、日本全体をかんがみ取り組む政治家が欲しい。
新聞報道では、今年にはいって熱中症にかかって病院に搬送された人が一万五千人を超えたとある。年々、増え続けるばかりで根本の原因が書いてはあるがいまいちわかりにくい。
わたしが若い頃には(日射病)というのが夏になると流行っていたが、それとはちがうのだろうか?新聞記者も世代の交代をして、(日射病)を知っている者がいなくなってその言葉に思いつかないのだろうか。
わたしは毎日、農作業をしていて、汗まみれになっている。下着は三度も着替え、シャワーにも三度はかかる。熱中症が恐いと考えながら、かかることがないのはこまめに水分の補給をしているからだろうか?でも戸外労働を毎日している人、たとえば交通誘導の警備員、作業員、バイクの配達人が熱中症にかかったという話はあまり聞かない。わたしもふくめて彼らの体は仕事上体温調節がじゅうぶんに機能しているし、体の構造もそなえが出来ているにちがいない。
産まれた時からエア・コンにかかり、育ち盛りの小・中学生の時期にまでエア・コンの温度調節の世話になっていれば体の構造からその機能がうしなわれていくのは当然ではないか?原発への依存から脱却できないのではなく、マスコミも原発依存症をつくりつづけているのではないか?害が増えたほうが資本家にとって仕事がふえ、利益になるのである。資本主義とは反面、人間の不幸を必要としているのである。
マスコミには購読者への啓発の任務もある。こうすればエアコンの世話にはならない方法などを書いて、文明への依存をできるだけ少なくする知恵を提供すべきである。それが東北大震災からの教訓である。
(スカートの中)と書くとほとんどの人は(盗撮)という言葉を連想するだろう。それほどのブームになってしまった。
デジ・カメが出来てこの現象が増えたわけだが、この行為によってどれほど多くの男が一生を棒にふってしまったかは新聞紙面やテレビを見ればわかる。デジ・カメが発明されず、ただ覗くだけであれば証拠の把握がむずかしく、捕まることはなかったはずである。
男にとって(スカートの中)はそんな犯罪行為をもよおさせるほど神秘的であり謎であり、興味を抱かせる。ギュンター・グラスの小説作品(ブリキの太鼓)の冒頭のシーンが忘れられない。ジャガイモ畑で主人公の祖母がジャガイモの収穫をしていて、その大きなスカートの中に男がかくまわれていてナチスの逮捕から助けられるという設定であったが、すごく象徴的なプロットであった。
(スカートの中)は二番目の子宮みたいなものである。その中にかくまわれ、育てられ、男児は欲情するのである。愛液や野生の匂いが充満し、それらをどんな色・模様のパンティで包装しているのか、男達は興味シンシンである。
スカートはヨーロッパで考えだされたと思うが、今や世界中を占めてしまった。西洋文明と同じく多様性と変化に富み、ひとつの文化でもある。タイトスカート、ミニスカート、フレアスカート、キュロットなどわたしが思い浮かべるだけでもこれだけの数があり、模様などは無限にあると思っても良い。
女の人はいくら年齢をとってもスカートをはき、どんな冬の寒い時でもスカートを離さない。
当然、わたしはスカートをはいたことはない。はいてみるとどんな気分になるかは想像力を働かせてくれて楽しいものである。そこには(女神)が棲んでいるにちがいないし、そのうちスカートをテーマにした小説や映画がつくられるだろう。
毎日、カラカラ天気がつづき、まさに猛暑です。熱中症で倒れた人が今年に入って一万人を超えたと言う新聞報道もあります。
わたしの仕事は700坪の敷地の手入れです。川のそばの歩道に沿って30本ほどのツバキが繁茂していましたが、風の通りも悪く、外から塞がれた状態になっていましたので、根から一メートルほどの幹を残してチェーンソウで切ってしまいました。部屋からの見通しが良くなり、また100メートル先を走る電車の中からわたしの姿が見えるようになりました。この二、三日、切られて枯れたツバキを燃やしました。ものすごい炎があがり、恐くもありましたが、全部燃やして敷地が広々となりました。
つぎは100坪ほどの畑を埋めた雑草をカマで切ることです。ヤブガラシやドクダミがびっしりと埋めていたので、刈り取りました。畑に穴を掘って埋め、肥料にするつもりです。
今朝、朝食の時、食パンを食べていて、雑草を刈り取った跡にキャベツが植わっていたことを思い出しました。包丁を持って畑に行き、枝分かれして小さなそれを刈り取ってきました。外の葉を落とし、キッチンの桶に入れて水洗いしました。葉がスカスカの状態で小さく、スーパーで売ってるのと比較してあまりに情けない姿でした。葉をめくっていくと中にまで土が入り、小さなナメクジが二、三匹張り付いていました。ナメクジを洗い落としましたがネバネバ感は葉に残っています。捨てようかと一瞬考えましたが、包丁で刻み、ドレッシングをかけて食べました。ほどよく硬く、昔の味がして美味しかったです。いろんな野菜をあちこちに植えているのでこのキャベツのことは忘れていることが多かったのですが、3月に植えて4ヶ月ぶりの対面は感動的でした。無農薬栽培で野菜をつくるのはつくる人間よりつくられる野菜のほうが生き延びるのに苦労しています。
キャベツ君、ありがとう!
今度は自然農法で肥料もやらずに立派に育ててあげるからね!
7月11日のことです。岡垣町で住民投票条例案の成立をめぐって、議員の投票が行われました。傍聴人がおよそ80名、新聞記者が4名見守る中、(岡垣町で住民投票を成功させる会)の共同代表である三人が議会席に座っていました。かれらは10分以内という制約の中で立って陳述をしました。西田代表は町が実行している海老津駅南口開発の発生・歴史およびその反対運動の流れについて金額や数字をだして話し、地下道や南口広場を建設することの無意味を訴えました。西村代表は署名で回ったときの経験を話しました。住民が金比羅山を守り神として敬っている事実さらに地域のシンボルとしてあることを靴底を減らしながら聞いたと話しました。中村代表は(計り知れぬもの)という言葉で切られ捨てられるヒノキの葉一枚にその価値があることを話しました。
11名の町会議員にはいろんな思惑がからんでいて、いろんな意見を言いました。ある議員は(岡垣で住民投票を成功させる会)は政治団体なのか任意団体なのかを聞き、チラシには倒される木の樹齢が数百年であると書いてあるが調べると50年でしかなかったとか、自由通路や南口広場造成の予算の金額表示が正確ではないと言って、住民投票の成立についてのテーマからはずれてしまい、この議員の(重箱の底をつつく)特性を表現していました。次の二人の議員は町長の意見書を持ち出し、開発が町の発展になり新たな住民を呼び込む効果があると小学生のお遊戯会さながらのぶりっ子ぶりで町長に肩をもっていました。次の議員はギリシャの民主主義をもちだしたか思うと(お天道様)という古い日本語を持ち出し、論理が破綻しているのに大声をあげて自己の弁舌に酔い、認知症を疑われました。議事録をみるとよくわかります。次の議員は前議員だった西田共同代表のことをしつこく持ち出しました。彼女が町長選挙に立候補するために町会議員をやめてその空席をつくり、いかに迷惑をかけたか?今回も町長選にでるためにこんな活動をしている!と、個人攻撃をいつまでもつづけました。住民投票条例案とは関係のないことです。傍聴席から(個人攻撃はやめろ!)と声が起こると、議長が(傍聴席のかたは静かに!)と言い、(議長はしっかり采配をふるわんか!)という声に議長は(騒ぐ人は退場してもらいますよ!)と叫び、そんなやりとりがつづいていました。
待機していた警察官が呼ばれ、(個人攻撃はやめろ!)言っていた二人の男は警察官の事情聴取に呼ばれ、状況を話していました。その間に(住民投票条例案)成立の採択が問われ、4対7の割合で否決され、4紙の新聞に翌日掲載されました。
この町は福岡市と北九州市の間に位置しています。海あり山ありの自然に恵まれたところですが、町長、町職員、町会議員のほとんどが地縁血縁の地元出身者で占められています。採用も縁故が多く、町長は職員の出身で、労組の委員長もしてたので町長ファミリーをつくり、ほぼ一党独裁の形で町を支配しています。(井の中の蛙、外界を知らず)の世界がまかりとおり、まさに遺物(異物)になっていっています。
昨年の町長選挙で現町長と西田氏が争い、二千票の差で現町長が勝ちました。開発賛成派はよくこの数字をだしますが内容は利害関係にもとづく票が多く、これは本来排除されなければならないのです。排除されないからいつまでも金権政治がつづくのです。
前回の海老津駅南口開発反対の署名運動では5,500名の署名(有権者数は二万六千人)が集まったのですが、町政には反省もありません。署名をしたある旅館には町から嫌がらせの電話が入ったという噂さえあります。岡垣町役場のそばのスーパー、駐車者場わきの歩道に立って開発反対のチラシ配りをしたことがありましたが、いつもすぐに店長が注意をしに来たり警察官が来たりしました。後日、そのスーパーの店長に事情をきいたところ、町役場からチラシ配りをやめさせるように言ってきたということです。
まさに(お代官様)の世界です。
今、畑にはキュウリ、トマト、スイカ、トウモロコシ、ナス、ピーマン、トウガラシ、えんどうまめ、オクラと盛りだくさん結実していますが、他の畑はヤブガラシやセイダカアダチソウに侵略されてどうしようもない状態です。植えてたはずのものが消えてしまっているのです。さて、どうしたものか?と思案します。まずそれらの雑草をカマで切り、その畑に肥料として埋め込む。次に黒いビニールで覆い、雑草のはびこるのを防ぐ。しばらく休耕田にするか何かを植える。その前に落葉を埋め込み、分解するのを待ち、見通しがついたら種ではなく、苗を植える。種は落葉の中では育たないが粉末になった落葉の堆肥の中では育つ。種ものはどうするか?箱やポットの中に蒔いて苗になるまで待つ。それから落ち葉や枯れ草の分解した畑に黒いビニールを敷いて定植する。大根のように雑草と同じく育ちのいいものはビニールを敷かずに種をそのまま畑にまく。
堆肥づくりがむずかしいのですが、木枠で囲った中に生ゴミ、雑草、落ち葉など自然分解するものをいれておくのです。生ゴミは底に入れてむき出しにならないようにします。
その流れで無農薬、無肥料の畑を作ります。鶏糞や化学肥料などを畑に入れていたので虫や雑草が繁殖していたのです。枯葉では繁殖は低くなるはずです。
客を招いて広い庭の散策をしていただき、庭でかれらに収穫してもらってその場で調理し、食べていただく。創作料理をわたしがつくる。
以上のことを夢見ています。
これからも七百坪の土地で楽しい悪戦苦闘が始まりますが、ぜひ皆さんを招待したいものです。
このテーマは1970年代、つまり全共闘運動や反戦運動が盛んな頃に一時マスコミで取り上げられたものですが、わたしの文学活動において自分が狙っているものだと近頃気づいて改めて確認したくなりました。もともと芸術活動はリピドー(生ー性衝動)にもとづいてうまれ、昇華されて多彩な色彩を帯びていき、素晴らしい作品がつぎつぎに世に出て行き鑑賞者を興奮させ悦ばせるわけですが、リピドーそのものたとえば(性愛の技)そのものがテーマと重なることはありません。三島由紀夫の傑作(仮面の告白)だって文学性はすごく高いものの、(性愛の技)の部分は省略され、そのことによって芸術性を貫いています。作家にとって(性愛の技)の部分を取り上げることはエロ小説になるあるいはされる可能性が高く、どうしても引いてしまいがちです。
作品(銀ラメのハイヒール)も性愛の世界を哲学にまで昇華させたい狙いがありながら、(途中からエロ小説になってしまっている)と批判されました。わたしはそれを認めます。
そのことを反省したうえで、作家の名声をえた者がしり込みしてる分野に挑戦します。現在、執筆をはじめた(隣の女)です。(性愛の技)の部分はどうしても手垢のついた下ネタ話になりがちですが、そこに人間の真実が潜んでいます。