ブログ - 201112のエントリ
種をまくと新芽を虫に食われることは書きましたが、豆類は食われないだろうと考えてサヤエンドウの種を土に埋めました。一週間ほどで芽がで、そのまま忘れていましたが、一ヶ月目に訪れると元気な葉が出ていました。二十本ほどですが、長さ30センチには成長していました。今度は虫に食われずにすんだ、俺が料理して食べる番だと思いうれしかったです。
ところが一週間後に訪れると二十本ともすべての葉がきれいに食い尽くされていたのです。食べたものの正体を探りましたが見当たりません。たぶん、フランスからやってきた・・虫でしょうが、あることに気づいたのです。虫達は考えたのです。新芽をすぐに食べるより成長するのを待ち、大きくなってから食べよう、とまったく人間とおなじことを考えたのです。
(一寸の虫にも五分の魂)ということわざがあるように東洋思想は奥深いですね。
二ヵ月後にはサヤエンドウの残った茎から芽がで、葉になって成長していきました。生命の力ですね。逆境にもめげなかったのです。
親しい人と雑談をしていて、(私は人を信じない)という言葉が出て、言及しないでいるとその場から消えていきました。話はちがうジャンルにはいっていましたが、私は(するとこの人は私も信じていないのでは?)と疑念を残したまま、帰宅しました。
次の機会に出会ってまた話をはじめていましたが、(人を信じない)という言葉が気にかかった、と言うとその人は笑顔のまま、それは誤解されたかもしれませんがこういうことですよ、と説明をはじめた。
(信じられる立場のほうが辛いと考えるんですよ。期待され、束縛されるでしょう?辛くありませんか?)
(そうですね。なるほど)
(信じません、というと人を傷つけることになりますが、わたしは人を束縛したくないのです)
わたしはうなずき、そのようにとらえる人もいるんだ、と判断しました。
(そんなことはなかなか人には出せない言葉だけど、あなたに言ったということはあなたが気を許せる相手だと思ったからだよ)
もう一人の知人はわたしに言いました。
なるほど、と思いました。誰しも人を信じて裏切られた経験があるでしょうが、自分の心がきままなのだから人の心もそうだと考えたほうがいいでしょう。でも、信じれる人が欲しいですね。
真理は一つである、ことはご存知ですね。わたしもそう思っていたし、そうでなければならないと考えるのですが、飛び込み訪問の仕事をし、労働組合の活動をし、妻子をもってみると近頃は(人が100人いれば100の真理がある)と考えるようになりました。そのように考えていれば意外な人や意外な言動におどろくことがありません。ある時(あなたはよく正論を言うが人は正論では動かないのです)といわれ、なるほど、と目から鱗が落ちました。
(十人十色)という言葉はこのタイトルの内容を言いえています。それを肝に銘じておけば少々のことにまどわされたり、ふりまわされたりすることはありません。良くないのは(人はこうでなければならない)とか(自分はこうでなければならない)という考えに基づいて混乱させられることです。
何がおこっても不思議ではないし、どんな人間がいても不思議ではありません。
これが私の人生の結論です。
2011年12月1日。六本松の会社に行き、帰りは組合の忘年会に参加した。ビール大ジョッキ4杯、焼酎のお湯割り1杯で良い気分になった。仲間たちとのざっくばらんな話しに花をさかせた。
帰宅のJRに乗って、つり革につかまっていると、目の前で二人の若い女が喋りあっていた。職場の話を淡々としていたので耳を半ばかたむけていると、経理の話にはいったころ、(方程式に罪はないわ)という言葉が発せられ、わたしはおどろいてその言葉を意識の中にとりこみまちがいないかどうか確認した。
(方程式に罪はない)
という言葉にまちがいはなかったが、なぜわたしがその言葉に注目したかというと、(人間は物質であり、その意志・行動は化学反応である)と結論づけていたからであった。64年間生きてきて、自分もふくめまわりの人々の言動の基本ラインはまったく変わっていないことを知っている。(人の命は地球より重い)とか(二人のために世界はあるの)など人間中心主義的に基づいた教育がいかに人間観や社会観をゆがめてしまったかよくわかる。
人間や社会の動きは化学反応であり、特権的、特殊なものではない。(すべてはなるべくしてなる)化学方程式と考えればそれに(罪)などあるはずもない。