ブログ - 201212のエントリ
現代をどのように捉えるか?ということになればいろんな捉えかたがあるでしょうが、私は3年前に(デジタルファシズム)という言葉を思い浮かべました。自分の考え事、人の話、新聞・テレビ・ネットの情報の中に数字が主導権を握り、為政者・マスコミが国民をマインド・コントロールし、私たちはそれの信者になってしまっている。数字のマジック、詭弁、欺瞞には空恐ろしさを感じ、実例をあげればきりがなくそんな手品に自分の人生が支配されてきたことがわかれば憎悪さえ沸いてくる。
(高齢者の犯罪が増えました)と新聞が報じていたが、その増加率は高齢者の増加率とどのように関連してるかの数字は出さない。高齢者の人口が増えれば犯罪の数字が増えるのは当然ではないか?
警察官の犯罪が増えたように報道してもいたが、それまでは彼らが前科者情報やガサイレ情報を流しているのは日常的であり、情報公開が義務づけられたにすぎない。テレビ番組の視聴率も首をかしげたくなる。その時間帯にテレビを切っている者の数字は入ってはいないから正確な数値ではない。
こんな報道の仕方では白を黒ということだって出来るのである。事実と真実はちがうのである。当局が都合の良いことばかり言いたければ都合の良い数字・事実を出せば良いのである。都合の悪い数字・事実は隠しておけばよい。
マジックによるこんな操作が東北大震災を引き起こしたのである。新しい時代は合理主義の思想を見直し、再検討しなければならないし、合理主義は偏向し迷信にもちかいものであることに気づかなければならない。時代や思想を大きく歪めてしまったことも。
支える者、支えられる者、あるいは被害者、加害者、あるいは支配者、被支配者、あるいは教祖、信者などにおいて私たちは対立概念を教えられてきた。ところが、支える者、支えられる者においてもわかるように支える者は支えられてもいるのである。(人)の形を例に出すとすると、支えられる側が崩れ落ちてしまえば支える方も支える対象を失って孤立し、崩れてしまうのである。物理学的現象である。
ある初老男は認知症の母親の世話をしていて、食事を作り話相手になって面倒をみている。母親はほとんど家の中にいるが、時には家の玄関と庭先を行ったり来たりして運動もしている。息子の帰りが遅いとふらふらと近くまで彷徨してしまう。現在、彼は母親を支えているように見えながら、もし母親が亡くなった場合支える対象を見失って自分を失うであろう。
ボランティア活動においては助ける側は助ける行為において相手より優位な自分の立場を実感し、安心するのである。だから無償の活動をするのである。これは慈悲とかヒューマニズムとか言うことより力学的現象なのである。
長年にわたって喧嘩ばかりしている夫婦がいる。亭主はツマが不倫をして出て行くか不慮の死にあえば良いと思っているのだが、ツマはいつまでも元気でささいなことで亭主を攻撃する。ある日、自転車をこぎながら買い物に向かっていた彼女が飲酒運転の車にはねられて死んでしまった。亭主はおどろきながらもチャンスがきたとおもい、願っていた再婚にかかろうとするが、喧嘩相手をうしなって意気消沈してしまう。
こんな意外な顛末になるのである。まさに逆説であるが、マスコミ報道や世間の見方をかえてみれば意外な真実がひそんでいる。