ブログ - 日記カテゴリのエントリ
今日も朝の五時ころに起きて、ニラ、ギンナン、ヌカの袋詰めをした。7時過ぎに家を出て、バイクで産直店に行って、陳列台に並べた。値札を張り、まわりに出ている野菜の種類を調べ、値段を調べ、売れ残りを探した。
そんなことをしていると、栗を出している老人がいたので、寄って行って話しかけた。
「まあだ、栗がでよるんですか?うちはもう終わりましたがね」
「うちもこれで終わりです」
「この渋皮は包丁でむくんですか?」
渋皮はみっちり張り付いていて、取るのが大変だけど、この老人はいつもきれいにむいて出している。
「クリ剥きハサミでこすりとっています。値段が高いち、言われますが三時間も四時間もかかって、たったこれだけしかむけないんですよ」
見ると、百グラムほどの小袋が五個並べられていて、一袋が五百円の値札が付いている。
「指が腱鞘炎にかかりそうで、もううちで食べるだけにしようと思いよります。八十歳になって、百姓はやめようと思いよります」
自分は72歳になっていたので、その気持ちがよくわかった。
「イノシシが食べにくるけ、電気柵の金だけでも10万円はかかりました。赤字です。米作りもやめました。一千万円もする耕運機なんて買えません」
「そうですね」
「消毒やら肥料代もバカになりません」
「うちは猪も来ないし、自然農法ですから、そんな金はいりませんが、一般の農家は大変でしょう」
わたしはその気持ちがよくわかり、
72歳になって,性欲は落ちてきた。人生において、食欲、性欲、睡眠欲などの三要素の一つが落ちていくわけだから、淋しい、と言えるが、その存在の意義が逆にわかってきた。
わたしは男であるから、あの若き頃、女は輝いて見えていて、町に出ると女の方ばかり見ていた。今の女はズボン姿が多くなり、色気を失ったが、まれにスカート姿の女が現れると、希少な存在として見える。やはり、スカートからはみ出た脚の美しさは格別であり、そのふくよかさは母の優しいさにも通じる美であり、スカートやワンピースの色やデザインによってさらに魅力を変え、強めるのである。
性欲が衰えたからといって、女の魅力が失われたわけではなく、ロウソクの灯のような明かりで、女の姿は微妙な陰影を豊かにして、絵画の中の女のように輝かせるのである。これは女性の視点の場合も同じである。老女がまれに、わたしをにんまり見詰めている時、わたしはその視線の中に潜んでいるリピドーを感じ、たがいに生きている実感をわかせる。
灰になるまで、と言われるが、老女と体を交える時があれば、まさにそのことを感じさせるであろう。桃の実の場合でも、新鮮でみずみずしい味わいもあるが、腐りはじめた時の(ただれた味)も格別である。そんな期待と想像をしながら生きている日々である。
福岡伸一さんの(動的平衡)という本を何年か前に読んで、納得し理解したつもりであったが、思い返せばそれは十分であったとは思えないことに気づいた。自分ながら人生上の出来事や社会のそれを振り返りながら、やはり、福岡さんの書いてたことは真理であると今、思い返した。
ウイキペディアによると、動的平衡について、以下のように書いてある。
(たがいに逆向きの過程が同じ速度で進行することにより、系全体としては時間変化せずに平衡に達してる状態)
具体的に世の中の動きや自分の人生を分析すると、よくわかり、私自身が高校生の頃から、人生なんてどっちに転んでも同じである、と考えていたことがこの箴言により、真理であったとわかる。タイトルに書いているように、医学が進歩して良くなったように一般人は思うが、そのエネルギーに並行して病気の種類も重さも進むということである。良いことがおこればそれに比例して悪いことも内在して進行しており、悪いことが起これば良いこともそのように進行してるのである。光と陰の関係にも例えられ、実体が強くて輝けば、陰もそれだけ濃くなるのである。冬の寒さが強ければ風呂に入った時の暖かさは格別に強く、エアコンで温まった状態で入ればそんなに暖かさは感じないのである。
戦争がひどくなればその速度で平和を求める気持ちも強くなるということであり、平和主義者たちが平和を訴えれば、次に起こる戦争はひどくなるということである。
この真理を知らなければいろんな出来事に失望することになるが、知っていれば失望は少なくなる。男女間の恋愛や人生の失敗や成功などすべてにおいて適用できる哲学である。
ある小説を書き上げて、先ほど、応募した。結果はどうなるかわからない。二人の女に読んでもらったら、若い女は泣いた、と言い、もう一人の老女は、面白かった、作者の想いが良く伝わってきます、という返事をくれた。選評はかなりの線までいけるのではないか?と思う。実体験が半分以上占めているから、私を知ってる読者にはモデルの正体がばれやすく、そこが懸念である。
その中で、三島由紀夫の(愛の渇き)という作品に出て来る、(愛さえなければ)という言葉を借用させてもらった。愛さえなければ無事に過ごせたものを、あったがために悲劇に落ちてしまった、と言う意味である。応募した小説は俗にいう三角関係であるが、主人公つまり自分がその女に愛があったあった、と指摘されれば、すごく複雑な気持ちになってしまう。それは自殺未遂をした女への憐み・同情なのか?神の説く普遍的で広いものであったのか?男女の愛、だったのか?など、区分が出来ないのである。キリスト教でも見えるものはすぐ消えるのでむなしく、見えないものにこそ価値がある、と言うが、その言葉通りに、見える言葉には変えられないし、変えれば嘘になってしまうのである。
世の中にはこうやって、言葉にされたために本質や真実を失ったものが多すぎるから、噂やマスコミの言葉はそのまま信用はできない。歴史もそうであるし、いろんなものが誤解されて通用しているのである。
今年は歳男であるから、良いことがある、と期待していた一年であるが、半年たっても幸運は来なかった。懸賞小説には落選し、産直店出荷もいまいち、稼げないし、女も出来ない。このまま一年が終わり、蓄えが消えていくと思うと、気分が塞ぐが、ある発見をした。
一昨日、カレーライスを作って、二日間食べた。自然農法で作ったジャガイモ、タマネギを使ったのであるが、ともかく甘く、二日間食べても飽きなかった。今日はそのタマネギでスパゲティを作って食べた。明るい甘さと言おうか、ともかく自然の甘さなのである。心も元気になった。
今年は雨の日が多く、チップが燃えなかった。米ぬかを土に巻き、枯草をのせて燃やしてみたが、部分的にしか燃えず、黒炭は十分にできなかった。それでもみ殻とヌカを混ぜて燃やす方法を考え出し、これなら、全面的に燃やせると思う。
自然農法が野菜の本来の味を出しているのである。これでレストランでもやれば大繁盛だと思う。肥料は野菜のご飯と同じなのである。今月は、ジャガイモを植え、カボチャの種も播いた。カボチャは芽を出して、葉を付けたので、実がなるかもしれない。
近頃は新聞もあまり読まないし、テレビも観ない。なぜなのか?よく考えてみると、あることに気づいた。太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラン・イラク戦争、9.11テロ事件などにきな臭さを感じ、その楽屋裏が見え、仕組んだ者達の姿が見え始めたからである。マスコミはその実態へメスを入れようとはしない。なぜなら、彼らも秘密結社に支配されているからである。
秘密結社はイラン・イラクと戦争を起こし、石油危機を招いて、石油代の値上げし、儲けた後は石油への依存が消えないように戦争を中断し、何年か後にはまた起こして、石油価格の操作をしているのである。石油だけではなく、軍需産業も支えているのだ。フセイン、ビンラディン、アルカイダなどもアメリカがつくり出したもので、石油価格高騰のために利用されたに過ぎないし、9,11の、高層ビルの飛行機の衝突にしても巧妙に仕組まれた脚本の実演に過ぎないのである。各階に爆弾を仕掛け、同時に爆破して崩れ落ちる構想は天才的と言うしかないが、それは聖書が十人以上の弟子たちによって作り上げられた物語と同じく偉大な共同制作なのである。
わたしたちはマスコミに現れる姿でしか見せられないようになっているのである。
事実はすっかり隠され、捏造された歴史が残っていくだけである。歴史観はもう一度創り直されなければならない。
うちの庭には栗の木が四本あり、毎日、実を拾い、産直店に出している。日に二千円ほどになり、貴重な生活費であるが、腰を曲げて,ニ、三時間も採るのに疲れることがある。
そこで、イガグリ君について考えてみた。
ドングリ、シイノミ、柿など含めて、彼らは風や蜂、蝶などの力で遠くに移動し、種をばらまくことが出来ない。おのずから野生動物や人に食べ、咥えられて運ばれるしかないのである。だから、美味しい実をつけなければならない。栗の実は美味しいが、花を付けた頃に虫が卵を産みつけ、実の中に入り込んでいる。実を食べながら成長し、実が落ちると出ていく。
実は体中がイガイガだらけで、こんなに小さいからまだ食べないでね、と言っている。が、大きくなると体を割って落ち、美味しい私を食べてね、とうったえてくる。そこで実を採るが、厚い皮に守られていて、それを剥かねばならない。その次には、体中に渋皮が張り付いていて、それを削り取るのがすごく面倒である。これは栗の作戦なのである。(全部を食べないでね)と言い、渋い部分をこぼし落として、地面にまこうと考えているのである。
虫に食われた栗は畑に捨てている。そこから芽が出て成長する。虫のお陰で人間に食われなかったわけである。
そんな子育てをして、栗は親の木から離れた場所に芽を出し、成長していく。
なんと、人間顔負けの、頭脳的な生き方ではないか!
会社を、定年でやめて、まわりの人々と付き合い始めると、右を向いても左を見ても婆ちゃんたちばかりである。自分は爺ちゃんであるが、婆ちゃんには興味がなかった。が、近頃は彼女らに若い女にはない魅力を覚えるようになった。
パソコン教室の隣の彼女は、わたしが先生に質問して、メモを取ろうとすると、彼女のノートを切り取り、ボールペンをそえて、わたしの眼の前においてくれる。帰りには、菓子を一、二個、取り出して、僕の目の前にこっそり置いてくれる。
八十歳近い老女は社会・政治活動の活発な人で、それらと環境問題など話し始めると、一時間も二時間もしゃべり、元亭主を町長選挙に立候補させたことなど、あの人は女の人が好きなの、というおひれまでつけて顔を輝かせてしゃべる。顔から皺が消え、肌も輝いて、三十年も若返る。
ある老女は、朝は、お早う、夜は、お休み、とほぼ毎日、メールを送ってくれ、ひどい時には日に、二十件ものメールが来たことがあった。
カラオケ教室の老女は、毎回、おかずをパックに詰めて持って来てくれ、げた箱の上にこっそり隠していたた。うれしかった。これらは若い女にはあまり見られないことである。時々、そんな婆ちゃんたちの手をこっそり握りたくなるが、そんな時、セクハラだと騒ぐだろうか?興味のあることである。
これらは、爺ちゃんたちにはない性癖であり、やはり、女だな(母親だな)と胸を打たれ、女房に迎えたくなる昨今である。老いても、花盛り、である。
カラオケの会、英会話教室、俳句の会、障害者の会、年金の会、キリスト教といろんな団体に属してきたが、構成員の九割は女であった。寿命の長さは女の方が長いので女が中心になるのはやむをえないが、九割ともなると異常である。外国の場合はどうか知らないが、日本の男性は家と職場の往復生活がほとんどなので、退職するとその村社会から外に出ることができないのである。ここに日本社会の歪さがある。
年金の会は政治闘争が中心のせいか、逆に男が九割を占めている。支部長ともよく話すのであるが、女を増やそう、という結論である。女は子育てを機会に学校や社会とのつながりが自然にでき、料理、趣味、買い物、衣服などの多彩な趣味を発揮していく。一人の女の会員と一人の男の会員では、十倍の力の開きが出てしまうのである。政治や企業もそれを知って、女を増やそうとしているが、思うようには増えていない。それは考え方に女特有の偏狭さがあるからであろう。女先生とのメールのやり取りにみられるように、主題から外れて感情論になってしまいがちなのである。全体を見落としてしまう。カラオケの歌い方を問うたのであるから、それだけに話を進めていけば、効果がでたはずであるが残念である。カラオケ教室は辞めました。
ひとつ前のブログを読むと自分の文章が変に思える。自分で書いていながら何を書きたいのか、まだ、まとまっていない。それに、おかしな区切りの枠が出て、書きにくくなってしまった。小説として、女になりたかった女、男になりたかった男を登場させてからませれば面白いと考えた。
女先生はそんな病気にかかりながら、陰の部分が色気としてにじみ出なかったのである。色気とは実体と重なり合いながら存在する陰みたいなものであるが、全方位的に明かりを浴びて出来ない場合がある。
男勝りでありながら、自分の陰・女を求める女先生は興味深いし、それをドラマにして書き上げていくことも、能力があるかどうか別にして面白いし、今の時代に消えてしまったサドマゾを復活させてみるのも、あれは何だったのかと考えさせられて面白いのである。女先生の内部から、マゾ的なものや負圧的なものが出てくれば女になっていくであろう。歌においてもテクニックに頼る方であり、声の出し方に距離感という言葉で、5,4,3,2,1と数値化している。そうして、(造花)を作り上げていけば、生きた花より美しいものが出来上がるに違いない、造花教室の造花先生として。