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昨年の12月末に原田可菜人氏を訪問した。宗像市の田舎で古民家を再生し、(種紡ぎ村)として村つくりをしている人で、(レア仲間)の一人である。一年前に古民家を料理屋として開店したが、集客がうまくできず、赤字、赤字と嘆いておられた。
店に入ると、彼はマキストーブに薪を入れてくれたが排気がうまくいかず、煙が天井を這っていた。2年間もかけて椅子、テーブル、棚、囲炉裏、トイレを一人でつくり、金もかかったのに排気のことに気づかなかった。設備をすれば100万円はかかるという。
彼は半年前に童話「人間この最低の生き物」を自費出版した。副題にーそれは私です。あなたです。?と書いてある。ータイトルがひどすぎるんじゃない。エッセイならともかく子供に読ませる童話でしょう?親が買いますか?とわたしは言ったが彼は黙っていた。?すでに一千部が売れた。ーと彼は言い返した。わたしは自分がすごい変わり者(レア)であることは十分すぎるほど自覚しているがそれに負けず劣らない姿勢に言葉がなかった。自費出版に200万円はかかってるはずである。今年の西日本新聞に彼のことが紹介されるという。民放テレビが放映を頼みにきたが彼の趣旨は入れないというので断ったという。かれの姿勢は立派だと思う。客商売か、自分の生き方を貫くのかのせめぎあいの中でビジネスをやるのはむずかしいだろうが、他人の児でも我が子として育てよう、という考えには大いに同意できるし、応援もしたい。
彼に引き換え周りを見回すと、人の顔、社会の変わりように気味が悪くなる。子供の騒ぎ声、泣き声、はしゃぎ声を聞かなくなった。感情を出すのは悪いことという風潮になれば生きてる表情もなくなってしまうのは当然である。
わたしは逆の生き方を目指している。会社をやめ、家庭もなく、これまで抑制された自分自身を発揮するのだ。作詞した(ふるさと岡垣)を歌い、ユーチューブに出すであろう。濃い茶色のツナギ服の背中、そこに組んだ鉄輪を刺繍し、レア仲間のタイトルを出して世界に向かって歌うであろう。
ガラパゴス村は二つの大都市の中間に位置していて、ベットタウンに近い町であったり、そこからすごく飛び離れたへき地であったりする。秘境の地、と呼ばれることもあるが、概して古参住民は新移住者たちを(よそ者)と陰口して排除する傾向があり、すでに社会には存在しないような旧種族たちがオオトカゲのように山の中を歩き、開発などと称して植物を食い荒らし破壊している。除草剤などを平気で撒き散らして町がきれいになったといって喜び、町役場は人件費が少なくてすんだと同類たちは評価しあっている。
町議会は代官所であり、住民の皆さんのご理解とご協力をお願いします、と町長が顔写真(創価学会の会長のようにいつも広報誌に顔を出す)入りで訴えながら、傍聴席で納税者が私語をしようものなら退場させて独裁体制をとっている。議員の中には議員歴が二十年の者がいて新入り議員を指導し、政治的発言はせずに町長のいうことを聞くように脅している。
町民はカラオケ、ゲートボール、老人会、官製イベントが大好きで、ボランティア活動をはじめ様々な行事、同好会に集まるがそこでの人間関係は日本の開国以前のものでガラパゴス諸島に残っている遺物である。カラオケ教室などにいきなり入会してみたりすると、あの人が入会したためにレッスンが一回しか受けられなくなったとか歌が下手なので調子が狂うなど陰口を叩かれて追い出されることだってある。男と女の関係は主婦老婆たちの大好きな噂話になっていて、神社の神主には女がいて隣町のだれだれだとか、現町議の・・は前町長の隠し子だとか、その妾は・・だとか下半身世界は熱く燃え上がっている。老人会などの団体は町の日頃の買収活動(補助金を出すなど)が功をそうして、町長や役場にはお世話になっていると考え、票を売ることになる。
この町の駅前をみればよくわかる。タクシー乗り場、バス乗り場、駐車場、情報プラザなど利便性ばかりが優先され、喫茶店もなければ食堂もなく、遠来の人が一休みするところが一箇所もないのである。これでも町長は転入者を増やして固定資産税の収入を増やしたい、だから駅南に改札口を設け、道路も通すと言い、線路の下を掘って通路をつくっている。22億円の金を町民からぶんどっている。町長、町議、町職員たちはガラパゴス村から出て外界で生活したことのない者ばかりで自分達が旧人類だということをまったく知らず、高給さえもらってれば歯車作業(システム通りに動く)でもなんでもやるのである。
ここで商売を始めると絶対に失敗するという点では、折り紙つきの町である。一ヶ月前にこの町のメインストリートというべき旧商店街の交差点にから揚げ屋が開店したが、ほとんどの通行人はそこに客がはいっているのをみたことがなく、閉店のカウントダウンが始まっている。二十年前には(寿屋)という大手スーパーがあったが十年ともたなかった。不良品を返品しに持っていくと、わたしに免じてゆるしてください、と店員は頭を下げ、公私の区別が出来ないのであった。ボッタクリ・スナックもあります。一万円札や五千円札を出さないようにしてください。出してしまうと、(大盤振る舞い!)とママが言ってお釣りを返さないことがあります。
さて、今年も残り少なくなりましたが、来年もこのガラパゴス村で生活し、住民と役場の実態調査をつづけますのでよろしくお願いします。
わたしは心臓のバイパス手術をし、身障者の認定の申請をし、(身障者の会)にも加入しています。同時に数年前から障害者への視点が変わってきました。同情とか蔑視ではなく一つの個性、キャラとして見、接するのです。社会福祉の充実や人権擁護活動により障害者を差別的に見る者も少なくなりました。昔、社会福祉制度がない頃は障害者達は家の中に閉じ込められたり、路上で物乞いをしたり、見世物小屋で自分を晒して金を得、生活していましたが今はそんなことはありません。
奇形顔の女の人にも出会いました。誰もいないのに空に向かって笑う若者、飛び跳ねるようにして歩く男、などさまざまなレア(希少)な人と知り合いになりました。車椅子にのった人などはすでに一般的になってしまったので希少性はありません。希少性の中にこそ芸術やアートの種は潜んでるわけですからわたしは宝の山に出合ったようなものです。奇形顔の女の人は強烈な効果をわたしに与えています。その印象、イメージからさまざまな文章が生まれ、絵へのイメージも膨らんでいます。
自分もふくめてたくさんの障害者、いろんな障害者が登場する作品はまだありませんが、すべての登場人物が障害者である作品を書いてみたいものです。
老人は歳をとり、未来が短くなってくる。逆に過去が長くなってくる。過去の精神的財産を食べながら余命を過ごしていく。そんな実感が湧いてきた。その中に(お医者さんごっこ)という宝があったことを思い出した。この言葉を知っている団塊世代も数が減っていってるわけだから、レア(希少性)を持つことになる。
あの頃、小学校に通い始める前の時代のことであった。当時、住んでいた家は5,6軒の家に囲まれ、同世代の子供達がいた。親は仕事にでかけていない。ぼくたち、近所友達は集まってパッチンやビー玉遊び、釘うち、駒回しなどをして遊んだ。雨の日などは相手の家に遊びに行った。鬼ごっこをして、押入れに隠れた。日頃親しい女の子と二人で押入れに入り、いつの間にか抱き合っていたりした。どこでおぼえたのかわからないが、たぶん父母の性交現場を見たにちがいないが女の子のパンツを脱がせ、自分もパンツを脱いで性交のまねごとをしたのだ。女の子の胸や性器をいじったりした。
それを(お医者さんごっこ)と言って、時々相手を変えてやったことがあった。今では考えられないことだが、乱交にちかいことまでやった記憶がある。夢の中ででも良いからもう一度やってみたい。
午前四時に目が覚めた。布団から起き上がって、石油ストーブに点火し、パソコンを立ち上げ、小説の続きを打ち始めた。一時間ほどで厭き、また布団の中に潜り込んだ。眠れそうで眠れず、布団の中から出、壁の掛け時計を見上げた。いつものようにコツコツと時を打ち、秒針はいつもの速度で回っている。
午前七時であった。
どうしたんだ?これから一日をどう過ごすんだ?土曜日だから株式市場は休みだし、カラオケ会もカラオケ教室も休みだし、曇り空の下で野菜に肥料をやる気にもならない、町営の銭湯に行くのもおっくうだ。こんな部屋にこもってるのもうんざりだ。どうするんだ?
おまえは時間というヤツだよな。生まれてから一秒も休まずおれといっしょに過ごし、また監視もしてたんだよな。まだおれに付きまとってるのか?いい加減こんなおれから離れ、オサラバしても良いんじゃないか?
そういうおまえは昨日計画していた今日の予定をすっかり忘れ、忘れていることさえ気づかないじゃないか?午前七時にいつものコースを一時間半ほど散歩して、十時に文房具屋に行って画用紙と鉛筆を買い、帰宅して昼食を食べ、十二時半に家を出て、一時から絵画教室に行き、入会手続きをしてデッサンに取り組む予定じゃないか。
わたしは厚地のカッパを着て、外に出て散歩し、この原稿を思いついて書いた。さて、画用紙と鉛筆を買いに出かけようか。
朝、目覚めてもなにをするのかわからなくなった時、布団の中に入ったままになった時、時間はわたしから離別し、わたしは時間を失う。そうだ、時間はわたしの育ての親であった。産まれた時からわたしに付き添い、片時も目を離さず、勉強にがんばり、恋をし、泣き、笑い、働き、そして最後は死を見守ってくれるのである、壁の掛け時計のように。
5年ほど前、博多の焼き鳥屋で仕事仲間と呑んでいたことがあります。酔っぱらって良い機嫌になって、トイレに行こうと立ち上がった時、隣の席にいた若い女が話しかけてきました。(さっきから聞いていると厭らしいエッチな話ばかりしてますね。不愉快だからこんな所では止めてください)と言うのです。わたしは唖然として言葉が出ず、(そんな話をしてどこが悪いのか!そんな話をするためにココに来てるんじゃないか!)と普通であれば言い返すのですがトラブルになって、NHKという会社の名前が出るのを恐れて黙っていました。
そこで考えるのです。わたしが若い頃は酔っぱらった時には必ず女の話をし、それが当たり前だったのです。どんなふうにしてくどいて落とした(自分のものにする)とか何人の女とやったとかそれは賑やかなものでした。ところが近頃では草食系だとかセックスをしないカップルなどが増え、上記のようなことが起こるのです。
猥褻とは何か?いつから発生したのかを考えました。若い頃に読んだフーコーの(性の歴史)のページを開いてみました。資本主意の発達から猥褻の観念が国家権力によって作られた、と書いてあり目からウロコが落ちました。やはりそうであった。日本文学においても性を取り上げ、問題にするのは近代文学からです。男女の関係を取り上げたのは中世からありますが、大らかな視点からであってエロイとか官能的という視点はありません。
国家権力がタブー視し、規制したのです。刑法の中の(猥褻物陳列罪)なんかが良い例です。
なぜでしょうか?今もしそのことを問えば、みっともなくて人に迷惑を与えるから、と答えるでしょう。繁殖に大事な性器がみっともないのでしょうか?なぜみっともないものとしてみるようになったのか?麻薬がなぜいけないの?と問えば健康に悪いからと答えるでしょう。詭弁なのです。性や麻薬使用に自由を与えると国民が」働かなくなり、資本主義(一生懸命働くことがモットー)に反するからです。権力が(セックスはいけないこと)と規制したがためにそれを破ることの危機感・快感が猥褻感、官能を産むことになり、皮肉な結果になっています。ただ、性産業など資本主義の一環をになうものにはOKを出します。酒やタバコなどの場合にはそのために殺人事件に発展することはありませんが、性の場合にはそれがありえる恐い深さがあるのです。性の世界も性行為そのものや色気、チラリズムなどが商品化され、資本主義の食い物にされていくばかりで、真面目に取り上げることはありません。
一婦一夫制度はなぜあるのでしょうか?一夫多妻になると課税対象が減り、一婦一夫制度のほうがたくさんの税金がとれるからです。すべての判断は資本主義・民主主義に沿ってるものなのかどうかで判断されます。
人工知能が発達しすぎるとロボットが人間にとって変わる、というパーキンス博士のニュースを読んで考えました。日常生活で聞きたいことがあって会社に電話を入れると、これは自動応答システムです、と言ってくる。番号を入れて用件を絞っていくと人工言語で答えてくる、そんな時代になっている。
地球の放射能汚染や大気汚染、土壌汚染などが進み続けても人間は資本主義による欲望誘導に勝てないことははっきりしている。破滅に向かって繁栄していくだけである。そこで環境汚染の中で生き残るのはロボットしかない。創造主は人間のDNAを環境汚染に耐えるものに変えていく、あるいは新人類を発生させるなどの方法を考えてるだろうが、ロボットに地球の管理権をあたえることも視野にいれているにちがいない。
すでに介護ロボットや工場の製造ロボットなどは実現している。ネネルギーはバッテリーで良いのだから、ロボットに太陽光発電や原子力発電のやりかたをプログラミングし、彼らの食料源の確保をさせる。自分で発電工場の設置をさせたり、従来のものを活用するマニュアルをかれらに入力する。人格権を与え、取引も売買も出来るようにする。大変なように思えるがそのシステムが完成すればあとはむずかしくない。次にロボットがロボットを製造・生産するシステムをロボットに考えさせ、実行させる。ロボット人口の数も適切にコントロールさせる。
気宇壮大な話であるが日常生活を見回せばじょじょに進行していることがわかる。
衆議院が解散して、総選挙の日が近づいている。候補者たちは美辞麗句を並べ、具体性、責任のない公約をしゃべり、マスコミはその様子をテレビの画面に出してこの体制をあおっている。特にNHKは公共放送の使命を放棄して自社番組の宣伝、料理番組、スポーツ番組、観光番組に精を出し、政治や思想の分野は放棄している。候補者達が公約を並べ立てるとき、実行できなかったらどんな責任を取るかなんて言う者は一人もいないし、具体的な数値を出す候補者も少ない。これでは言いっぱなしであり、見世物にしか過ぎないではないか?そんな連中に高い税金を出して食わしてやり、政治交付金としてお小遣いまで出していて自由に使わせているという事実はどこかの国の独裁政権と同じではないか?独裁政権の場合であれば人民を食わせきらなければクーデターが起こって独裁者は殺されるわけだが、民主主義は他国に介入して(人道支援)ー(侵略)をしては良いが、それ以外の暴力はいけないという。
まさに詐欺師の論理であり、罪を着せられることの無い(合法的詐欺師)なのです。いっそのこと独裁政治に変えて自由に政治をやらせ、責任を取らせるほうがはっきりして良いのではないかと考えたりする。
安倍政権のもとに衆議院が解散し、年末には選挙がある、という報道が流れている。自民党がまた政権を取るであろうが、たとえ他の政党が取ったとしても政治のベクトルが変わることは無いから、税金と時間と無駄使い以外のなにものでもない。
わたしも利権国民の一人ですが、利権国民とは生存権・生活権をもち、利便性、快適さ、食欲、性欲、権勢欲、消費欲、金欲など限りない欲望をひそめている現代人そのものです。かれらは産まれた時からテレビやネットをそばに置かれて、それに依存する依存症にかかり、自転車をこぎながら車を運転しながらスマホの画面に目を向ける重症患者に症状を進行させていきます。画面の世界では食べることの快楽、セックスの快楽、噂話、珍しい話・出来事・事件を知る快楽、利便性や快適生活、他人の意見・考えなどまさに情報が百花繚乱する世界です。多くの者が目を走らせて止め、コマーシャルに目を向けなければ成立しない世界なので多数が関心を持つ材料でなければなりません。そこで選別され、捨てられ、隔離される分野が出てきます。残酷だとか人権上に問題がある、危険な考えかたである、危険なサイトなどと批判が出れば引っ込め削除されます。今、街中を歩いても野良犬や野良猫、ホーレスを見ることはまずありません。子供たちは彼らの存在は知らず、彼らが隔離されていることも知らず、そのうちにかれらはこの世から消えて伝説上の存在になっていくでしょう。ホームレスの存在は生活の保障を訴える政治体制にとっては邪魔であり、生活権を与えて得票の材料にするほうが効果的なのです。
教育の分野においても民主主義・資本主義の素晴らしさを教えられます。小学校・中学校と恐れ多くも文部科学省の検定を受けた教科書で学ばされ、検定を合格させる役人もその思想に洗脳された連中ですから、独裁国家の人民抑圧の状況や封建時代、第二次大戦の悲惨さを訴え、現代の政治体制の素晴らしさを限りなく訴えます。野蛮なことや野生状態は悪いことであり、環境破壊する利便性・快適さ・消費欲・進学熱・天皇制・権威などは立派なことであると骨の髄までしみこませて教えます。民主主義・資本主義が人類を絶滅の方向に向かわせているなどとは絶対に教えないし、そんなことを言う者はわたしがかつて言われたように(今の時代に生まれてくる人間ではない)のです。
利権国民がこうして作り上げられていくと、待ち構えていたように政権を狙う政党は求めに応じる公約を掲げ、利権国民はそれに投票します。利権政府が登場し、産業・メディア・教育などすべの分野に網を張って常日頃から利益供与をおこない買収活動を行い続けます。
これを繰り返すのです、自然が崩壊するまで進んでいくでしょう。例え野党が政権をとったりしても多数決原理が基本である民主主義は人間の欲望を得票の交換条件にするしかありません。
人類史的にみると人間が知性を持ったことがすべての原因です。知性を持ったために人類繁栄のメリットを得たが絶滅のデメリットも持たされたのです。
若い頃、共産主義を理想にしたことがありました。平等で、搾取・差別のない理想郷を夢見たこともありましたが、そんな世界は世界の現実を見回せばわかるように、ありえない、という結論に達しました。村や国という形態が出来れば運営する資金が必要になり、運営する側はその資金を自由に使える立場に立つのです。するとまず自分達が美味しいものを食べ、飢えるということはありえず、金を自由に使うようになるのです。階級の上に立つ者が食物連鎖のシステムの中で食べる側の頂点に立つのです。食べられる側は食べられることで異常繁殖を抑制され、階級・彼らの生存が守られるのですが、頂点に立つものは食べる者がいないので倒され、次の支配者に取って代わられます。
支配者がいなければ被支配者は存在できず、被支配者がいなければ支配者も存在できません。コインの裏と表の関係みたいなものです。
現代の日本の身分制度は複雑です。餓死するものがいない、生活が困窮すれば生活保護受給という制度があるので身分制度はないようにみえますが、支配と被支配の関係はあり、なくなることはありません。階級制度や食物連鎖がなくなれば自然界も人間社会も崩壊するだけです。
やや単純に日本の階級制度を現してみると、1?天皇家・政治家・資本家 2?公務員・大企業労働者・生活保護受給者 3?非正規雇用労働者・中小企業、となります。1が2と3を搾取し、2は3を搾取しています。この連鎖のなかでは1,2,3の一つが欠けても社会は崩壊します。これは搾取関係ばかりでなく共生関係も含んでいます。政治家と公務員、資本家と労働者、大企業と抽象企業のように持ちつ持たれつの関係もありますから階級制度は経済的優遇の度合いで判断するしかありません。