ブログ - 20250416のエントリ
七十七歳の今になっても女の心には理解できない部分が残っている。男と女は肉体的にも精神的にも異なるので、その特性を尊重しあって生きるべきだと考えていたが・・・・。日常生活での言動は理解できるが、性と愛の領域においてはわからないのである。
ある女と付き合っていて、初めてアパートを訪れると、部屋の戸はすべて開け放って寒い風が入っていた。それは自分が変な気を起こさないようにするためで、彼女は既婚者の男とは一切性行為はしないという方針だと分かった。それはトラブルになって問題を起こさないためで、そのことは理解できた。それから、何か月か後に浜辺の海鮮料理店で食事をした帰り、後になって、あの時、いくらでもチャンスはあったのに手を握ってくれなかったね?とつぶやいたのであった。
それほど警戒心の強い女の手など握れるはずはないし、そんな気にもならないはずなのにである。そのことが彼女にはわからない。結局、彼女はそれから何人かの男と付き合いその時の性行為の中身を自分にくわしくしゃべったのであった。腹立たしい思いで聞いていたが、おかしな女だとも考えていた。彼女は今、認知症になって老人ホームに入っているが、見舞いに行きたいなんて思いはしない。
これに似たようなことはたっぷり経験してきたが、今、自分のテーマになっているのは、(愛と性)の関係である。愛があって性に続くのか、性があって愛に続くのか?過去の経験を振り返りながら考えても結論は出なかった。教会の先輩・女信者に問うと、信仰一筋でやってきたのでそんなことには興味も関心もありません!という者がいたが、結婚して夫も子供もいるのにそんな答えはないでしょう!と言いたかったが、言葉を止めた。
両者は関係がある場合もあるし、関係がない場合もあるというのが答えではないか?二者択一的に処理しようとするからわからなくなってしまうのである。量子力学的に、シュレディンガーの猫の言葉にあるように、猫は生きてもいるし死んでもいるのである。それに聖書では、初めに言葉があった、言葉は神である、というのは間違いである。初めに動きがあった、言葉はそれを説明するために用いられたが、言葉は不完全で本質を見失った、ということではないか?