ブログ - 202501のエントリ

木枯らしや板戸ゆすりてせがみしや

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日記
執筆 : 
nakamura 2025-1-30 7:01

  この二、三日、お客さんたちに弁当を配るたびに、寒いですね!が合言葉になった。老人たちは火の気のない部屋で身を縮めて、弁当を待っている。要介護が必要で買い物にも出かけられず、料理もできないというのが条件であるが、そんなふうには見えない人もいる。日に十五件ほどを一時間でくばるのだが、老人たちの生活が見えてくるし、自分が人に感謝される仕事をしているという満足感も出てくる。

 十四件目の家はAさんであるが、少し緊張する。チャイムを鳴らし、ドアを開けて、「お弁当ですよ!」」と声をかけてやるが部屋のドアは締め切られたままである。するといつも間にかドアが開いて、Aさんが立っている。まるで幽霊のように存在感がなく、吹雪から戻って来たばかりだといわんばかりの重装備である。熱い手袋をはめ、毛糸の帽子をかぶり、オーバーをき着て、ご苦労様です、と消え入るような声を出している。まだ真新しい家で暖房設備は十分にありそうなのであるが、エアコンもストーブもない。

 いつもいつも助かります、と彼は言い、三百円はいつも下駄箱の上にきちんと置いてある。心不全を患い、車はなく、国民年金だけで生きているという話を聞いて自分の身と引きかえ苦しさがじゅうぶんわかった。

 あまり長話はしない人だが、去ろうとすると、この弁当できょう、生きられます、という。弁当のない時はご飯とみそ汁ですまして入りうという。自分は貧乏であるが、おいしい料理を作り、酒は飲んでいる。彼に今度、おいしい料理でも作ってやりたいと思う。

 外に出ると、木枯らしが頬に吹きつけた。

 

 

手品師たちの政治

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日記
執筆 : 
nakamura 2025-1-24 8:15

  わたしみたいなバカがまだ生きている、戦争は八十年間起きていない、それはある部分で政治の力であることは認めるが、それにしても政治とは摩訶不思議なものである。やることなすこと種明かしのできないて手品といっても過言ではない。

 十年前、海老津駅南開発反対運動に参加し、署名を集め、議会の傍聴に出た。傍聴席から発言し、警察を呼ばれて、両側から警察官にはさまれた。どんな罪名ですか?と問うと、呼ばれたら来ます、という返事でその場は終わった。傍聴席からの発言を許している市町村もあることを後に知った。

 議案はすべて通り、議員の質問は通ったものとしての質問であり、費用対効果を考えていたら政治はできませんと述べた議員の言葉が今でも耳に残っている。駅の南側に県道が延長され、南口出入り口ができ、金毘羅山の北側が削られ、ヒノキが伐採された。ところ十年たっても県道に車の通行量は増えず、、新築の家も増えない。新聞や不動産業者は最も住みやすい街だと宣伝しているが転入者は増えない。なんのために18億円の金を使い、自然は破壊をしたのか?賛成派の議員に尋ねても返事はなく、これからですよ、という返事しかなかった。漁師をしていた当時の町長の生活は豊かになった。地域を破壊し、うまい汁を吸ったのはせいじかであった。

 こんな視点で回りを見るとよくわかる。小泉の郵政改革はどんな効果があったのか?まったくわからないし、郵便局の経営が苦しくなっただけである。

 政治とは種の見えない手品といっても言い過ぎではない。

加害者と被害者

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日記
執筆 : 
nakamura 2025-1-22 10:22

  出来事や事件を知って、加害者と被害者に色分けしたくなるが実はその色分けはあまり意味がない。両者はいつでも入れ替わるからである。カギと鍵穴の関係におけるように反転すれば同じものなのである。ユダヤ人の歴史は悲惨なものであり、皆殺しに近いホロコーストにあって気の毒としか言いようのない歴史であったが、アラブの土地を取り返してイスラエルを建国し、今に至り、アラブとの戦争を起こしている。こうなると被害者とか加害者とかの関係ではなくなる。力は正義なり、なのである。相手が滅びるまで戦い続ける。それは物理学の法則に似ていて、作用と反作用の繰り返しに過ぎない。

 札幌すすき野の殺人事件は裁判が進み、次は瑠奈被告の番になるのだが、猟奇事件と言われるほど怖い事件であるが、裁判の場でどこまで真相に迫れるか?関心を持っている。性交時に避妊しなかったことが原因のように報道されているがそうではない、と思う。日頃から家族を相手にサドマゾプレーをやっていたというが、瑠奈被告はそれを現実にやってみたくて仕方なかったに違いなく、避妊をしなかったことを理由に行動に走ったのであり、殺害行為はサドマゾの延長、現実化に過ぎなかったのである。こんなケースはいろんな事件においていくらも控えている。

 

対立が相手を造る

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日記
執筆 : 
nakamura 2025-1-21 11:00

  人間関係においても対立は嫌なことであるが、それが両者を作り上げていることを知ればけっして悪いことではないと考える。ウクライナ戦争におけるゼレンスキーとプーチンなどはその典型的な例である。プーチンがウクライナを侵略しなければゼレンスキーは登場しなかったが、侵略をしたために、登場させることになってしまい、三年がたっても戦争は終わらず、泥沼化している。両国とも国民は疲れ、プーチンは北朝鮮まで戦争に巻き込んでいる。

 プーチンとゼレンスキーはにらみ合いながら相手の心理を知り、作戦を練り、自分自身を構築し、戦っている。先手先手を打って戦いながらお互いは似たような性質になり、それはキリスト教における神とサタンの関係に似てくるのである。サタンが存在するから神が存在できるのであり、いなければ存在できない。また、神がいるからサタンも存在できるのである。良いこととか悪いこととかの次元ではない。

 じつは、こんな夫婦がいる。ところが二人は離婚もせず、死ぬまで同じ屋根の下で過ごすことになりそうなのである。

 ツマは冬の寒い時にも家の窓を開け放すので。彼女の部屋の扇風機は一年中、まわしっぱなしで、台所、廊下、トイレ、浴室の窓も開けて換気をするのである。匂いに過敏であるからであるが、夫が寒がっていることなど考えはしない。夫は開けられた窓を閉めていく。が、数十分もたてばツマがこっそり開けていく。夫が怒っても、知らぬ顔で、日常的なほとんどすべてのことで対立している。離婚しようにも二人とも高齢で、行き場がない。

 このままでは死ぬまで同じ屋根の下で過ごすことになりそうである。一方が考え直して変えれば和解することになるのであるが、夫は寒い冬を震えながら辛抱しなければならなくなる。

手品の仕組み

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日記
執筆 : 
nakamura 2025-1-14 7:12

  貧乏学生であったころ、エロ小説を書いて稼ごうとしたことがあった。ボロアパートの隣に越してきた女との関係を書いた。彼女の顔がシミの多いものであったと書いたが、寄稿先のスポーツ新聞の編集者は自分に相談もなく、美人であったと書き換えて紙面にのせた。その時は新聞に出て、わずかな原稿料をもらえたことで喜び、そんなものなのか?と思っていたが、いまはちがうのである。これが世の中を支配する手品であることに気づいたのである。 

 ある有識者が原稿を頼まれて書いたとする。彼は日ごろ自分が考えていることを書き、相手もそれを望んでいると勘違いして書くであろう。原稿を渡すと相手は、先生、素晴らしい記事ですがこの部分を読者が興味を引くような内容にしてくれませんか?と言って、書き換えを求めてくるであろう。編集者にとっては内容よりも読者受けするかどうか?売れ行きしか眼中にないのである。書き換えてそれで金が入ればけっこうなことなのである。

 虚偽報道にならない限り、これで世の中は通用し、それが手品師たちの力量であり、これがあらゆる分野で行われているとするなら、事実や真実などはあっというまに消えてしまい、カフカが小説で書いているように、虚偽と欺瞞が世界の秩序なのだ、ということになる。

手品師たちの世界

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日記
執筆 : 
nakamura 2025-1-13 21:44

  今日は久しぶりに良い日であった。自動車学校で認知機能検査に合格し、頭がおかしくないことを証明してもらったからである。半額の弁当をスーパーで買ってきて、高菜弁当を食べ、焼酎を飲んで祝った。ところが試験問題を思い出し、回答を考えてみると、思い出せないのであった。(赤の数あて)という言葉で覚えていたのだが、(数あて)という言葉が消えたまま出てこない。六十個ほどの動物や乗り物などの絵が出てそれを言葉にする試験であった。一週間もかけて暗記に努めたのであるが、数秒もたつと忘れ、試験に落ちるのではないか?と心配であった。ところが試験には別の絵が出ていて、これはやばいと思っていたが75点で合格していた。

 今年の難関を一つ突破したのであったが、あんな程度の試験で認知機能が検査できるのか?と不安も残った。

 それから、また、数字への日ごろの疑問が頭をもたげてきた。世界一の自殺国が世界一の長寿国ということが堂々と報道され、だれもが首をかしげないという事実・・。以前にもこのブログに書いたが、世の中を図る物差しが多すぎて、報道する側は自分の主張に都合のいい物差しを使っているということである。そこで専門家と呼ばれる人種が現れて、都合のいい物差しで測った数字を持ち出し、真実であるかのように紙面を飾り、飯の種にする。これがインターネットで世界を席巻していて、どの国も同じことを言って真理のようにふるまっている。それが世界を狂わしていることに気づかないのである。

 少しオーバーな言い方になるかもしれないが、小さいころから受験戦士として育てられ、良い大学、良い会社に入ることは、良い手品師になることではなかったのではないか?幸いにして自分は良い大学にも入れず、いい仕事にもつけなかったので手品師にはなれず、変り者、レアとして生きることができたのかもしれない。

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