ブログ - 20240129のエントリ
教会に通うようになったのは、十年前に心臓のバイパス手術をしてからであった。無事に手術を終えたのだが、ある頃から布団に寝ていて心臓が波打ってることを意識するようになった。心拍数が早く、時々不整脈も出ていて、ドッキンドッキンと打ってるかと思うと、止まり、また打ち始めるのであった。心臓が止まるのではないか?と不安になったが、そのうち、なぜ心臓は鼓動を打ち、誰の力で打ってるのか?と疑問を感じていると、聖書の創世記の中の一文に気づいた。そこには神があらゆる生命をつくり、生きていくようにした、と書いたあった。なるほどと考え、心筋梗塞で死にかけたわたしの心臓を救ってくれたのは現代医学であるが、生命の動きの根源まで説明は出来ないことに気づいた。全知全能者を持ち出さなければ説明がつかないのである。
毎週、日曜礼拝に通い、賛美歌を歌い、説教を聴き、使徒信条を唱えてきたが、老い先を考える今、仏壇にも手を合わせながら、ふと考える。あなたにとっての神は仏壇なのですか?キリストなのですか?という問である。ある宗派は神を信じるのであれば仏壇はどこかに処分しなさい、と言い、ふつうのキリスト教宗派は本人の考えに任せる、という具合になってるようだ。
母が十五年前に心筋梗塞で亡くなって、いっしょに住んでくれ!と言われながら放置し、孤独死という事態になってしまったのであった。近頃、そのことをすごく後悔しているし、そうか、おれもそのうち父母のもとに行くのだなと考え、成仏の意味も分かり始めたのである。善人も悪人も死ねば仏になる、と言う考えだが、そこであなたは父母の元に行くのではなく、神の元に行くのですよ!仏壇は取り払いなさい!と、もし言われたら、キリスト教の方を捨てるに違いない。
ここで、自分は若い頃は日本人であることをすごく嫌っていながら、今はやはり日本人であると、知ってしまうのであった。キリスト教に改宗した日本人たちはこのあたりをどのようにして理解したのであろうか?好奇心がわくのである。