ブログ - 20240126のエントリ
今の世の中は、差別、セクハラ、パワハラとマスコミが騒いで、混乱し、まさに、ものいえば唇さびしになってしまい、知識人、有識者たちも口をつつまなければやっていけなくなってしまった。作家やコメンテーターなどは自分の言ったことやしゃべったことがターゲットにされるのではないか?とおびえている。だから、自分の考えや意見が言えず、世の中はマスコミとチャチャ族主導に成り下がったのである。
ここではっきりしたことを言い、時代に方向性を持たせるべきである。
まず、差別とはちがいを指摘し、それだけならば問題はないのであるが、優劣感をふくませるから問題になるのである。このまえ、わたしが顔見知りの女に、あんた、顔が変わったんじゃない、肥えたみたいよ、と言っただけで、それはセクハラよ!と言って腕を摘ままれたことはこのブログに書いた。その後は、最近、可愛くなったね!なにか好いことがあったの?と話しかけるとすっかり、笑顔を見せる。
単純なことなのである。ほめ殺し、にしてやれば良いのだ。先ほどの言葉でわたしは彼女が醜くなったなどと思ったわけではない。ただ、肥えた、と言っただけなのである。当時、彼女は化粧をしなくなり、顔がだらりとなっていたことは間違いなく、彼女もそれを気にしていたからおこったのであろう。
その他、差別感がからみそうな差異はたくさんあるので気を付けなければいけないが、その言葉の真意がどこにあるか?差異の持つ重要性は忘れてはならない。同じ人間は二人とはいない。容姿、考え方がたくさんあってその違いがエネルギーを生み、多様性が活性化を産んでいることを思い止まるべきである。単細胞生物みたいにみな同じ顔と考えであれば、単細胞時代にもどるしかない。
多様性とは大事なことである。自分が人と異なることは気にすることではなく、逆にその個性を自慢すべきことなのである。こんなことを書くわたしはいつも変わり者と言われ続けてきて、気にすることがあったが逆に今は自慢したい。