ブログ - 202209のエントリ
あいかわらずの毎日であるが、死なないから生きてるようなものだ。週に2回のアルバイト、庭の栗拾い、際限のない草刈り、もみ殻とヌカ取りで、1日が終わる。ポンコツ車が助けてくれているが、走行距離は10万5千もいっている。タイミングベルトを交換しないとエンジンが止まってしまう、と言われながら、5万円
もかかるので金がない。あと、5千キロは走れるだろうか?と怖がりながらハンドルを握っている。俺の寿命とリンクしているみたいだ。今、75歳であるが80まであと5年である。
足腰の痛む時はリクライニング式の座椅子にひっくり返っている。そこで飯を食べ、お茶を飲む。昨日、そばでゴソゴソ動く気配を感じた。よく見ると、1匹のコオロギがおれの食べていたビスケットの袋の中に潜り込んで、ビスケットをかじっていた。
笑笑である。
75歳になって、インポになったが、妄想だけはたくましいのでそれほどの痛手はない。
勃起は男だけのものではなく、女にもある。クリトリスが大きくなり、硬くなるので男の現象との差はない。クリトリスのまわりが赤くなって充血し、膣は広がる準備をしている。男の場合はペニスが立つのでわかりやすいい。女の場合はわかりにくいが、顔や肌が赤らむので注意してみてるとわかる。
ただ、勃起するきっかけというのは考えてもわからない部分がある。性欲が高まっての場合はわかりやすいが、そうでない場合どんなきっかけで勃起するか?ということである。不意に勃起するのはダムの水位が高まった場合と同じで、性欲が溜まったにすぎないが、精神的な場合である。色っぽい女、体から性のオーラが出てる女に興奮するのはわかりやすいが、よく言われるチラリズムを見て興奮する場合である。そのものズバリを見せるのではなく、比喩的に遠回しにちらりとパンティを見せられたときの興奮はドキッとする。それは芸術的な感性で、動物は当然備わっていないであろう。女も浴衣姿の男の腰を見て興奮すると言ったことがあるから、チラリズムは男女の共通のものである。
比喩的遠回しにと書いたが、すべての芸術作品の隠れた秘密はここにある。その手法を知ったものでなければ芸術家にはなれない。自分が死ぬまで小説家志望としか言えないのは、これば原因である。
さて、本題は、ペニスは随意筋なのか不随意筋である。心臓や肺みたいに自分の意志では動かないのか?いやそうではない。インポの場合は別だが、性的妄想を意志で沸き立たせれば勃起するので意志の力で動くと言える。また、これをやればレイプになるのでやってはいけないと考え、勃起を中断させることもできる。だが、レイプ事件が起こるのは中断や阻止ができない、あるいは忘れてしまう場合である。食事をする場合に美味しさを感じるのは神がその仕組を作ってくれ,美味しさを与えてくれているからであり、腐りかけたものを口の中に入れると吐き出させるのは、体を守ってくれているからである。と考え、ではレイプや暴行の場合はなぜ神が阻止してくれないのか?このことを教会の女牧師に問うているが、返事は来ない・・・・・。
むずかしい信者が来たものだ?と考えているに違いない。
人および動物一般の内蔵、つまり心臓や肺や肝臓など、それらは誰の、あるいは何の力で動いているのか?と、考えた。その結論はエネルギーであり、では誰のものなのか?ということになった。もしかすると神の力ではないか?と思った。あるいは宇宙のエネルギーであろう。植物の生き方を見ればわかるように彼らには意思などはなく、すべて自然のエネルギーで生きているのがわかる。
75年間の人生において、あんなことをやるつもりはなかったのに体が動いてしまった経験を何度かやり、九死一生をまぬがれたことがあった。ほんの数分の時間差でまぬがれたのであった。ある女と偶然、同居することになり、女と相手の男との話し合いの場を待っていた。男は約束の時間に帰ってこず、二人は時間を持て余していた。寒いやろう、こっちに来ない?の言葉が引き金になった。体が合わさり、行為に入った。数分後に男は帰ってきたが、気配を察して体は離していた。数分の誤差で助けられた?それがなければ殴り合いになって殺されていたかもしれなかったのである。
そんなことをしてはいけない、と考えながら、勃起していたのであった。勃起してはいけない時に勃起したのだった。勃起は不随意筋の働きであり、自分の考えでは神の力であるということになるが、(なぜ、あんな時に神は勃起させたのか?)と今、教会の牧師に問うているが、少し待ってください、という返事。たぶん、難しくて考えきらないであろう。
(人間の意志の関われない体の動き)は珍しいものではなく、突拍子もなく動く場合だってあるが、原因はわからない。何のなせるわざなのか?医学や宗教でも説明がつかないが、奥深い聖書のどこかに眠っているかもしれない。
車の作動はすべてわかっているから、修理ができるが人間はそうはいかない。車は作る前の設計図があるから修理もできるのであるから、人間の場合もその設計図の部分から調べねばならない。
相変わらず、一人住まいのニート生活を送っているのはそれしかないからである。週に三回ほど、短時間のアルバイトをし、あとは農作業と買い物くらいである。暇だから考え事をする。さて、夏が過ぎ、秋が来て新しい年を迎えるのか?なにをしようか?
だが、待てよ、おれはあと何年生きるのか?今、75歳だけどオヤジはたしか75で死んだと思う。するとおれはもう死んでも良い歳なんだな・・・。もうすぐ死ぬんなら二、三年先のことだって、もう関係のないことではないか?死期が近づけばいつ死ぬかがわかるというが、おれもそうなんだろうか?そんな気配はないが、死ぬのが怖くて首をつった男がいた。その気持ちはわからないことはない。
小説(予告された殺人の記録)の書き出しを思い出した。(自分が殺される日、サンティアゴ・ナサールは・・)という奇妙で不可解な文章で始まるが、自分が殺されるなんてわかっていたんだろうか?まわりの者達はサンティアゴは殺されると噂していて、そのとおりの結果になるのであるが、どこか恐い小説でもある。
自分が死ぬ日が予感であってもわかってしまうとどうなるであろうか?何人かの親しいも者たちに、お世話になりました、と礼を述べて行くだろうか?いやすでに布団かベットの中にいるのでそんな事はできないから枕元に呼んで手をにぎるかもしれない。
こんなことを書いていると、死ぬことが現実て的になってしまうが、現実なのである。死んでどこに行くかわからないから不安である。わたしはいちおうクリスチャンであるが、やはり母や父が迎えに来てくれるほうが嬉しいし、安心できる。イエスや神が迎えに来てくれてもしょせんは外国人である。
最近は、血汐、という母を肖像にした小説を書き始めたが、自分が年老いていくと、母のことを想ってしまう・・・・。その作品の中では亡くなった母と会い、生きてる頃に話さなかったことを話し、ゆったりした時間を過ごしたいと思う。