ブログ - 20220514のエントリ
書く予定
わたしは不幸者である。家庭はなく、友人はおらず、貧乏で体は老化を始め、動かなくなりつつある。ただ、好奇心が強く、探究心はある。それが心の支えみたいなものである。
キリスト教の信者たちはすべて、神が愛してくださる、わたしたちを支えてくださると言うが、十年前まではその言葉が信じられなかった。まず、(愛)などという言葉は日本に古くからあるものではなく、西欧から入ってきたものであり、どこか安っぽく胡散臭い。それを大人が口にすることじたい、そして男女関係ならともかく日常生活の中で口に出すことに口はばったい気がしたのである。
神は地上のすべての生き物をつくり、繁栄させた、と聖書のに記してある。現代の科学でも生命を作ることはできないし、生命の構造自体も解き明かしてはいない。美味しいものを食べるとなぜ幸福感に満ち、変なものを食べると吐き出して健康をまもってくれるのか?など、謎と不思議さをたくさん残したままである。そこで全知全能の神とその愛を持ち出せば謎は解ける。
神の愛があるから、すべての生き物は生きることが出来る、というのは真理であろう。
では、なぜ、障害を持って生きるのが苦しい者ができるのか?神はすべてを健常者にして幸福にしてあげれば良いではないか?
このことを考えたが、答えは見つからなかった。
だが、貧しきも者は幸いなり、悩めるものは幸いなり、という警句が思い浮かんだ。なぜなら、神の救いが待っている、と書いてある。
金持ちには神の救いはいらないとは言えないが、貧乏であるからこそ救いが待っているのである。これは哲学的に考えても正しい。動的平衡である。
もし、生命に雌雄の分化がなく、単細胞のままであればすべての生命が同じ構造なのだから、障害などという言葉さえうまれないはずであるが、そうではなく、神は雌雄の分化をさせたのである。それはなぜなのか?結果的に色んな種類ができて多様性をうみ、一種が感染症で滅んでも違う種が生き残るようになったのである。
聖書には、神は神に似せて男を作り、その体の肋骨から女を作った、と書いているが、それ以前の状態はしるしていない。雌雄同体だったのか中性だったのかわからないが、単細胞の状態で増えていたとすれば生物の進化として符号するのである。