ブログ - 20220509のエントリ
聖書の(創世記)の一節はキリスト教の命題に当たるのもので、人間の原罪をあらわしている。エデンの園でなに不自由なく生きていけるはずであった人類は、神が食べるなと告げていた果実を食べたがために楽園から追放され、額に汗していきるしかないようになり、おまけに死ぬ運命まで与えられてしまった。
それは(禁断の木の実)、(善悪の木の実)とも言われているが、何を象徴しているのか断定できず、さまざまな解釈が出されている。
ここでわたしは自分の説を書いてみたいが、それはいろんな説の中の一つになっているかもしれない。(善悪の木の実)とは(知恵の木の実)とも言われ、人間の知性のことを言っているのである。類人猿にちかかった人間が木から降り、自分で考えて生きるようになった。それまでは本能にそって生きていたのに、自我に目覚め、利己主義を生み、自然に反する生き方をするようになった。生きるための戦いは戦争にまで発展し、現在のウクライナ戦争に見られるように、核兵器を使い生物滅亡の危機さえ生んでいる。猿の状態で生きていればこんなことはなかった。
自分に頼ってはいけません、という言葉を放っている宗派があり、最初はびっくりさせられた。これまで自分の考えと意思で生きてきたのになんと言うのか?わけがわからなかったが、今はわかってきた。神に頼って生きろ、ということである。
毎朝、目を覚ますと、今日も命を与えてくださましてありがとうございます。この生命は神のものです、お預けいたします。自由にお使いください、と祈るようになった。
人は神の子なのだから、神の意志と自分の意志が一つになればいいのである。これはむずかしそうなことだが、よく考えれば、神が日頃の生き方を指示してくれているのがわかる。わたしは農作業を終えて、夕食前に酒を飲んでいた。それが美味しく、毎晩、飲んでいた。ところが朝方、胃のむかつきをおぼえるようになって、控えるようになった。
神が、飲み過ぎだよ!と注意してくれたのである!
自分の意思ではなく、神の意志が働いたのである。