ブログ - 20220501のエントリ
信仰では自力と他力を分けることがある。仏教は仏に祈り、悟りを信者求めるので自力信仰であり(宗派によって異なるが)、キリスト教は神に救いを求めるので他力信仰というように。わたしはまだ信者にまで至っていないが、食事前、朝起きた時に手を合わせるようになった。飲食のときは、今日も糧を与えてくださいましてありがとうございます、目覚めたときは、今日も一日を無事で過ごせますように、と。最近、足の股関節が、時々、痛むので歩けなくなるのではないか?という不安がある。
若い頃は、神になんて頼るものか!と毎朝、冷水をかぶり、金比羅山まで走っていたが、年老いてしまうとこんなふうになってしまった。聖書を読んで考え、日曜礼拝に通いながら、神について考え、得るものは多くあったが、時々、迷うこともある。
人間や生命の体の動きについて考えることが多い。ご飯がおいしい!それはなぜなのか?神が美味しさを感じさせ、食べるようにすすめているのではないか?股関節のスジが痛む時は、無理をしてはいけないよ!と注意しているのではないか?と日常の自分の体の反応に神を感じるようになった。
体に怪我をすれば出血して赤い血を出させ、注意を促し、かさぶたをつくって出血を食い止める、これは誰の仕業なのか?創世記の章において、(生きて栄えよ!)と言っている神の仕業ではないか?
それは確かにそうであろう。
だが、他方、生物の本来の治癒力、生命力という言葉から考えるとそれも的を得ているのである。
だが、聖書では人は神の子なのだから、治癒力、生命力そのものが神の力であり、自分の力なのではないか。自分には神が宿っていて、その作用が働いているのではないか。日曜礼拝に参加して、使徒信条を唱える時、信者たちのアーメンというつぶやきが、ため息に近いものになって出ている。
他力は自力であり、自力は他力つまり神の力そして同時に、自然の力なのであろう。