ブログ - 20211113のエントリ
(贖い)という小説をかきあげて、自費出版系の出版社に送ったところ、最後までブレずによく書き上げられている、との評をもらい、180万円で出版しませんか?という誘いがあった。自費出版をする気はないので、返事はしなかったが、評の中で、欲を言えば人物の造形が弱い、とあり、その言葉が強く印象に残り、書いた作品を思い起こすと、やはり弱い、と思った。
自分の思い込みで、主人公は鏡のようなもので登場人物や社会を公平に映し出さなければならない、との先入観を持っていたので、泥臭い性格の部分はきれいに洗って造形しようとして書いたのであった。そこが、人物の造形に弱いと指摘されたのだと理解した。
二人の個性的な男がわたしのそばにいる。一人は三十年間も精神病院の閉鎖病棟に入っており、もう一人は時々、わたしの畑に父親といっしょに耕しにくる。昨日は約束しながら来ず、電話もかけてこなかた。ぐうぜん、スーパーで会い、問うと、父親の具合が悪かったから来れなかったすみません、とわびた。電話でも何故入れないか?おれは待っていた、といったが、彼が約束を守らなかったことは以前にも二度はあった。
なぜこんなことを書くか?というと、閉鎖病棟の男と彼が非常に似ているからである。二人ともどんな仕事をやっても長続きせず、友達も女もいない、自力では生きてはいない、他人への批判や攻撃は鋭くするし、暴力も振るう、趣味もない、生きても意味のない男と言うべきだろうが、わたしは自分を振り返りながら、ちがう視点を持っている。こんな人物こそ小説の中に登場させて存在感をしめすべきではないか?ということである。
そんなことを考えながら、もう一度、(贖い)に取り組みたいと思う。小説の中には、閉鎖病棟の男のかつての女が登場し、その女と作者であるわたしとの絡みがあり、凄まじい?ラストに進むからである。このホームページに掲載することも考えている。
傑作小説の主人公や登場人物はその時代を現しているから、上記の二人の男だって今の時代を象徴しているのである。