ブログ - 20191122のエントリ
昨日、赤間教会で牧師と会った。わたしは洗礼式へすすむ流れをきき、心構えも含めて、私の宗教観も話した。
悪党に近かったあいつが洗礼をうけるとは?旧友は、やっぱり、あいつは落ちぶれて、イエスに拾われたのか?と思うかもしれない。それはそれで、良い。
わたしは聖書にはすごく興味があっても、日常的に神を感じることはまれにしかない。それはすごく気分が良い時に、神が元気を与えてくれているのか?あるいは、山道を独り歩きながら神のエネルギーといっしょにあるいているのではないか?と想像するくらいのものである。
地球は回転する太陽から離れ、火炎となって太陽の周りを回るようになった。炎が消え、冷えていって、雨が降り、山や谷ができ、泥水の中から生命がうまれたという科学的な解明は聖書の創世記に書かれていることに通じるものが多い。創世記では、神が山や谷をつくり、すべての生命をつくって、人に管理を任せるようになった。(光あれ)と言われて、光が現れたことなども科学的観点につうじている。
牧師は神学課の大学院卒で、すごく包容力のある人で、洗礼を受けても、楽しみながら聖書を学んでください、と言ってくれた。
(神とは地球上の総エネルギーではないでしょうか?E=MGという方程式がありますよね。エネルギーは質量×定数、というわけですが、地球上でもっとも重いものは地球ですから地球そのものが神ではないでしょうか?そして、その一部が人であり、人のエネルギーではないでしょうか?
などのことを話し合った。こんな話を世間でしてきたが、ほとんどの人は、顔をそむけるような具合で、屁理屈屋、変わり者、という烙印を押してくれた。だが、教会ではこんな会話は日常的なものである。わたしは自分の古里に帰ったような気持で、神探しを続けようと思う。