ブログ - 20191109のエントリ
新聞やテレビ(ほとんど見ない)をみると、登場人物はそろいにそろってニッコリ笑顔である。わたしも仲間うちで写真を撮られる場合、ニッコリ笑顔をつくってしまう。出来た写真を観ると、自分の笑顔だけは作りものであることが分かる。
この社会は不幸を許さないのである。(健康で文化的な社会生活)を憲法は保証しているが、幸福を基準にしているのである。が、不幸な人間がいて生きていてもいいのではないか?70歳にして、妻子に逃げられ、友達もなく、月に五万円の国民年金で生活し、そろそろ蓄えが無くなり、余命を控えた老男が幸福であるはずはないと、まわりの者も社会も信じている。身の上話をすると、聞いた者は間違いなく、気の毒ですね、お悔やみします、と言うが、こんな自分でも生き甲斐はあるのである。産直に出した野菜の売れ行きをメールで見る時、このホームペイジの閲覧者数が増加している(この一週間、いつもの5倍くらいになっている)のを見る時、懸賞小説に絶えず応募して、金が入ることを夢見ている時、あの女と恋人になれるのではないか?と夢見ることなど、際限がない。早く死にたい、と考えて、毎晩、(今も)酒を飲んでいることなど、あげればきりがないのである。
幸福なら手を叩こう、ではなく、不幸なら手を叩こう、そんなコピーが流行る時、社会は生きがいのある社会になるのであろう。