ブログ - 201911のエントリ
このタイトルの本を読んだ。
期待通りの内容で、グレタさんのすごさと努力に敬服した。こんなことを行った彼女は、(現代のイエス)と呼ばれるようになるかもしれないし、まわりの同調者たちが彼女の言動を記して、(現代の聖書)が出来上がるかもしれない。
先日、わたしは小さな高菜を畑で取って洗い、(無農薬100%です。サラダに良いですよ)と書いて、産直店に4袋ほど出した。一袋が100であったが、一袋も売れなかった。虫食いだらけを客は敬遠したのであろうが、農薬の害より、きれいさ安さに人々は、まだまだ、関心があるのである。
そろそろ方向が変わっても良いのではないか!
グレタさんは彼女が自閉症、発達障害、アスペルガーであることを告白しているが、(私は多くの点で、私たち自閉症児のほうがノーマルで、その他の人たちの方がかなり変だと思っています)と書いていて、まさに真理を言い当てていた。この異常な世の中において、正常であると言う事は、ヒットラーの時代の親衛隊員のような者であろう。
グレタさんの主張の中で、少し私と異なることがあった。(温暖化)というテーマで論ずるべきであろうか?炭酸ガスが増え、氷が解けて水位が高まり、異常気象になって自然が破壊され、昆虫も消えて言っていることは(自然破壊)と言った方が的確なのではないか?それにわたしたちは温暖化の弊害を訴えると同時に日常生活においては何をなすべきなのか?ビニール袋を使わずに、買い物袋にするとか石鹸や化粧なども自然のものにするとかエアコンをつかわないとか、様々なことが考えられる。
要するに、利便性・快適さ、それを産んで金儲けをしている資本主義・現代文明そのものが問題にされなければ的を得ているとは言えないのである。
あることがあって、その精神病院に行った。大部屋のドアは施錠され、(第二病棟)と書かれていた。
ロックが外されて、中に入ると、広い部屋の中に、老人ばかりが、四、五十人ほど、長いテーブルに向かってすわり、小声でおしゃべりをしたり、ぼんやりしたりしていた。老人ホームを訪れたような気になったが、彼らの姿が小学生のように小さく見え、どこか幼さが感じられた。
面会の相手は、となりの間の椅子に背中を見せて座っていた。
婦長が私に、会うように言った。
「一対一で対面させるんですか?この男が過去にどれだけ暴力をふるったか知らないんですか!」
私は言ったが、婦長は取り合わなかった。
男の向かいの椅子に私は座った。
「あんたは・・病院のガラスを割った」
全く身に覚えのないことをその男は言い始めた。
「そんな病院なんてはいったこともない!」
と言って、彼が妄想状態になっていることを知った。
いよいよここまで来たな?と考えていると、
「 ・・洋服掛けが欲しいので買って来て下さい」
と言う。前回、彼は私と口論したことをすっかり忘れているのであった。
「その前に、やることがあるだろう。俺との関係をきちんと整理しろ!」
「そんなに興奮しないでいいじゃない」
彼は薄笑いをしながら、言った。
彼は開放病棟に15年ほどいたが、女患者や男達とトラブルがたえず、ついにその閉鎖病棟に移されたのであった。
男と話はつかず、これまでどおり無視することにした。彼は閉鎖病棟に入っている限り、外に出て、暴力をふるうことは無いであろうが、許可がでれば外出できるという。
私は心臓が震えるほど興奮していたが、椅子に座った老人たちの姿が胸の中に残っていた。徘徊癖やトラブル癖のあるものたちであろうが、この世から離れて生きている彼fらの、その姿が世間に出ることはない。
部屋から出ようとして、ロックされていて出れなかった。一人の老人が立ち上がり、職員を読んで、開錠させてくれた。
彼らは、夕食を前にして、座っていたのであった・・・。
誰からも見放され、(飼育)されている人々を見て、自分の行く末とも重なった・・。
昨日、赤間教会で牧師と会った。わたしは洗礼式へすすむ流れをきき、心構えも含めて、私の宗教観も話した。
悪党に近かったあいつが洗礼をうけるとは?旧友は、やっぱり、あいつは落ちぶれて、イエスに拾われたのか?と思うかもしれない。それはそれで、良い。
わたしは聖書にはすごく興味があっても、日常的に神を感じることはまれにしかない。それはすごく気分が良い時に、神が元気を与えてくれているのか?あるいは、山道を独り歩きながら神のエネルギーといっしょにあるいているのではないか?と想像するくらいのものである。
地球は回転する太陽から離れ、火炎となって太陽の周りを回るようになった。炎が消え、冷えていって、雨が降り、山や谷ができ、泥水の中から生命がうまれたという科学的な解明は聖書の創世記に書かれていることに通じるものが多い。創世記では、神が山や谷をつくり、すべての生命をつくって、人に管理を任せるようになった。(光あれ)と言われて、光が現れたことなども科学的観点につうじている。
牧師は神学課の大学院卒で、すごく包容力のある人で、洗礼を受けても、楽しみながら聖書を学んでください、と言ってくれた。
(神とは地球上の総エネルギーではないでしょうか?E=MGという方程式がありますよね。エネルギーは質量×定数、というわけですが、地球上でもっとも重いものは地球ですから地球そのものが神ではないでしょうか?そして、その一部が人であり、人のエネルギーではないでしょうか?
などのことを話し合った。こんな話を世間でしてきたが、ほとんどの人は、顔をそむけるような具合で、屁理屈屋、変わり者、という烙印を押してくれた。だが、教会ではこんな会話は日常的なものである。わたしは自分の古里に帰ったような気持で、神探しを続けようと思う。
私の身の上は、72歳にして妻子に逃げられ、金銭苦、孤独という状態で、それは不幸と認定される主要な条件を満たすのに十分すぎる。それは多くの人が、不幸の定義を植えつけられていて、最初から先入観をもっているからである。
確かに朝、目が覚めて、なぜ、目が覚めるのか?覚めなければいいのに・・、と悔やみに近い心境になることがある。特に、良い夢を見ている時で、昨晩は、教会で賛美歌を歌いながら、私の好きな叔母が笑顔で私のそばにいてくれた。眼覚めはそれを打ち破ったのである。その夢をそのままあの世に持っていければさぞ、(幸福)であったろうと思う。
新聞の人生相談を読んでいると、なぜ、そんなことで悩んでいるのかわからないことがある。生活費がきちんと入ってご飯が食べられているではないか?わたしなど、昨日、産直での売り上げが240円であり、これでは肉が買えないと不安になるが,そんな不安がないなんて、幸福ではないか?と反論したくなる。
ある女の人は、しゅうととうまくいかないこと悩みなのであった。ではそこに、生活費の悩みが加わったとすれば、しゅうとの悩みは半減するのであろう。
また、ある講演で聞いた話が印象に残っている。
その女の人は息子が障害児で排泄や入浴の面倒を看ている。まわりの人のほとんどは、大変ですね!というが、彼女にとってそれは嫌いな言葉である。
なぜであろうか?
彼女はその介護に満足感と幸福感を持っているからである。
が、他者にはその気持ちがわからず、既成概念と表面的な部分で判断しているからである。これに類する事例はたくさんある。もう一度自分や他人の悩みを考え直してみると、ほとんどの悩みは消えるはずである。
空腹の状態であれば、どんな食べ物を見ても美味しく見える。(空腹は最大の味覚を作る)のである。これは、(動的平衡)という言葉で総括される。不幸であればあるほど、幸福の味わいは、それに比例して強くなるのであるから、不幸は幸福の触媒作用を起こす、と言うことである。逆に幸福であればあるほど、不幸はどん底感に変わる。人生の最高潮にいる人が自殺するのはこの原理に基づいている。
新聞やテレビ(ほとんど見ない)をみると、登場人物はそろいにそろってニッコリ笑顔である。わたしも仲間うちで写真を撮られる場合、ニッコリ笑顔をつくってしまう。出来た写真を観ると、自分の笑顔だけは作りものであることが分かる。
この社会は不幸を許さないのである。(健康で文化的な社会生活)を憲法は保証しているが、幸福を基準にしているのである。が、不幸な人間がいて生きていてもいいのではないか?70歳にして、妻子に逃げられ、友達もなく、月に五万円の国民年金で生活し、そろそろ蓄えが無くなり、余命を控えた老男が幸福であるはずはないと、まわりの者も社会も信じている。身の上話をすると、聞いた者は間違いなく、気の毒ですね、お悔やみします、と言うが、こんな自分でも生き甲斐はあるのである。産直に出した野菜の売れ行きをメールで見る時、このホームペイジの閲覧者数が増加している(この一週間、いつもの5倍くらいになっている)のを見る時、懸賞小説に絶えず応募して、金が入ることを夢見ている時、あの女と恋人になれるのではないか?と夢見ることなど、際限がない。早く死にたい、と考えて、毎晩、(今も)酒を飲んでいることなど、あげればきりがないのである。
幸福なら手を叩こう、ではなく、不幸なら手を叩こう、そんなコピーが流行る時、社会は生きがいのある社会になるのであろう。
羊たちは牧童によって、牧草のある所に連れて行かれ、牧草を食べて生きている。狼の牙からも守られ、小屋の中で安全に生きているのであるが、数か月後には殺されて食べられることを知らないのであろうか?自分で牧草を探し、安全なところに隠れて、自由に生きようとは考えないのであろうか?
わずかの命を生きることの方が、命をとられることより大事なのであろうか?
ここで私は、自分やあなた方の立っている場所がその羊たちと同じではないか?と、考えてしまう。五十年後には食糧危機がくる、数年後にはバブル崩壊が訪れる、などと新聞でも囁かれているのに、私たちはその日さえ生きていければ良い、と言わんばかりに美味しいものを食べ、人の噂話に耳を傾け、毎日、朝日を見る。
人気のあるカラオケ教室で、私をはじめ、あと二人が脱会したが、先生は、やめるのは自由です、と言って、百人ちかくいる生徒、そのことに自負しているが、キリストは一匹の消えた羊に注目したのである。それは凄いことだ、と思う。一匹が何十匹分に値するのかを、イエスは読み取ったのである。
毎日、何が、売れるか?と、まわりを見回しています。ギンナンを産直店に出していますが、そんなに売れるものではありません。
渋柿が赤くなりはじめ、吊るし柿をつるす時期です。家の渋柿をとろうと、長い剪定ばさみを伸ばすのですが、枝を切ると柿ごと落ちて、ぐしゃぐしゃになり、売り物になりません。そこで蝶をとる捕虫網を剪定ばさみにとりつけ、網の中に落ちるようにすると、大成功でした。ところが、低い位置ならそれでできるのですが、高い場所だと網の位置が固定しにくくなります。そこで発見したのは少し太い枝の場合、ハサミが枝をしっかりくわえてくれるということでした。三脚を立てれば、かなり高い位置までとれますが、近頃は体がふらつき、危険です。それでも、一週間分の食費にはなりました。
コイン精米機にいって、ヌカをとる。精米所に行ってもみ殻をとる。フリーマーケットに参加して、古物を売る。畑の草刈りや草むしりをしてやって、金をもらう。時には送迎をしてやって金を稼ぐ。
そんなことをしていると、ある知り合いのおとこから、ホームレスみたいやね、と言われ、さすがに頭に来て、その男とは口をきかなくなりました。
母が
エホバの証人と現在の日本基督教団を合わせると、ほぼ五年間、教会に通い、聖書を学んだことになる。その二つの宗派の考え方や内部での信者たちのふるまいはかなり異なり、わたしは後者の方に共感し、毎週通っている。
その違いを書けば長くなるので書かないが、両者とも聖書を基本にし、神・キリストを信じているのである。わたしはもともと、自然の総体が神であると考えていたが、キリスト教の場合、自然をつくったのは神である、と、創世記にも書いてあるように、自然の上に神が存在している。この考え方の違いは日常生活においてもかなり異なる考えや行動を産む。ある信者は、朝日が昇る時、花が花弁を開く時などに神を感じる、と言ったが、朝日そのもの、花弁そのものではなく、それらの上位にいる神を意識しているのであろうか?そうなると、感じ方はかなり、異なってくるはずである。
(光あれ、と神は言われた。すると、光が現れた)
この聖句など、私の好きなものの一つであるが、光はエネルギーであり、すべての生命を生かしている根源的なものであるが、神の指示で現れた、となると事情が異なってくる。私の場合であれば、エネルギーそのものが神であると考えている。
こ