ブログ - 20190926のエントリ
ある小説を書き上げて、先ほど、応募した。結果はどうなるかわからない。二人の女に読んでもらったら、若い女は泣いた、と言い、もう一人の老女は、面白かった、作者の想いが良く伝わってきます、という返事をくれた。選評はかなりの線までいけるのではないか?と思う。実体験が半分以上占めているから、私を知ってる読者にはモデルの正体がばれやすく、そこが懸念である。
その中で、三島由紀夫の(愛の渇き)という作品に出て来る、(愛さえなければ)という言葉を借用させてもらった。愛さえなければ無事に過ごせたものを、あったがために悲劇に落ちてしまった、と言う意味である。応募した小説は俗にいう三角関係であるが、主人公つまり自分がその女に愛があったあった、と指摘されれば、すごく複雑な気持ちになってしまう。それは自殺未遂をした女への憐み・同情なのか?神の説く普遍的で広いものであったのか?男女の愛、だったのか?など、区分が出来ないのである。キリスト教でも見えるものはすぐ消えるのでむなしく、見えないものにこそ価値がある、と言うが、その言葉通りに、見える言葉には変えられないし、変えれば嘘になってしまうのである。
世の中にはこうやって、言葉にされたために本質や真実を失ったものが多すぎるから、噂やマスコミの言葉はそのまま信用はできない。歴史もそうであるし、いろんなものが誤解されて通用しているのである。