ブログ - 201909のエントリ

愛さえなければ。

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日記
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nakamura 2019-9-26 13:08

  ある小説を書き上げて、先ほど、応募した。結果はどうなるかわからない。二人の女に読んでもらったら、若い女は泣いた、と言い、もう一人の老女は、面白かった、作者の想いが良く伝わってきます、という返事をくれた。選評はかなりの線までいけるのではないか?と思う。実体験が半分以上占めているから、私を知ってる読者にはモデルの正体がばれやすく、そこが懸念である。

 その中で、三島由紀夫の(愛の渇き)という作品に出て来る、(愛さえなければ)という言葉を借用させてもらった。愛さえなければ無事に過ごせたものを、あったがために悲劇に落ちてしまった、と言う意味である。応募した小説は俗にいう三角関係であるが、主人公つまり自分がその女に愛があったあった、と指摘されれば、すごく複雑な気持ちになってしまう。それは自殺未遂をした女への憐み・同情なのか?神の説く普遍的で広いものであったのか?男女の愛、だったのか?など、区分が出来ないのである。キリスト教でも見えるものはすぐ消えるのでむなしく、見えないものにこそ価値がある、と言うが、その言葉通りに、見える言葉には変えられないし、変えれば嘘になってしまうのである。

 世の中にはこうやって、言葉にされたために本質や真実を失ったものが多すぎるから、噂やマスコミの言葉はそのまま信用はできない。歴史もそうであるし、いろんなものが誤解されて通用しているのである。

 

 

肥料がつくる野菜の味。

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日記
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nakamura 2019-9-23 20:03

  今年は歳男であるから、良いことがある、と期待していた一年であるが、半年たっても幸運は来なかった。懸賞小説には落選し、産直店出荷もいまいち、稼げないし、女も出来ない。このまま一年が終わり、蓄えが消えていくと思うと、気分が塞ぐが、ある発見をした。


 一昨日、カレーライスを作って、二日間食べた。自然農法で作ったジャガイモ、タマネギを使ったのであるが、ともかく甘く、二日間食べても飽きなかった。今日はそのタマネギでスパゲティを作って食べた。明るい甘さと言おうか、ともかく自然の甘さなのである。心も元気になった。


 今年は雨の日が多く、チップが燃えなかった。米ぬかを土に巻き、枯草をのせて燃やしてみたが、部分的にしか燃えず、黒炭は十分にできなかった。それでもみ殻とヌカを混ぜて燃やす方法を考え出し、これなら、全面的に燃やせると思う。


 自然農法が野菜の本来の味を出しているのである。これでレストランでもやれば大繁盛だと思う。肥料は野菜のご飯と同じなのである。今月は、ジャガイモを植え、カボチャの種も播いた。カボチャは芽を出して、葉を付けたので、実がなるかもしれない。


 


 

世界を支配している者達。

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日記
執筆 : 
nakamura 2019-9-20 21:55

  近頃は新聞もあまり読まないし、テレビも観ない。なぜなのか?よく考えてみると、あることに気づいた。太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラン・イラク戦争、9.11テロ事件などにきな臭さを感じ、その楽屋裏が見え、仕組んだ者達の姿が見え始めたからである。マスコミはその実態へメスを入れようとはしない。なぜなら、彼らも秘密結社に支配されているからである。


 秘密結社はイラン・イラクと戦争を起こし、石油危機を招いて、石油代の値上げし、儲けた後は石油への依存が消えないように戦争を中断し、何年か後にはまた起こして、石油価格の操作をしているのである。石油だけではなく、軍需産業も支えているのだ。フセイン、ビンラディン、アルカイダなどもアメリカがつくり出したもので、石油価格高騰のために利用されたに過ぎないし、9,11の、高層ビルの飛行機の衝突にしても巧妙に仕組まれた脚本の実演に過ぎないのである。各階に爆弾を仕掛け、同時に爆破して崩れ落ちる構想は天才的と言うしかないが、それは聖書が十人以上の弟子たちによって作り上げられた物語と同じく偉大な共同制作なのである。


 わたしたちはマスコミに現れる姿でしか見せられないようになっているのである。


 事実はすっかり隠され、捏造された歴史が残っていくだけである。歴史観はもう一度創り直されなければならない。

イガグリ君。

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日記
執筆 : 
nakamura 2019-9-17 5:27

  うちの庭には栗の木が四本あり、毎日、実を拾い、産直店に出している。日に二千円ほどになり、貴重な生活費であるが、腰を曲げて,ニ、三時間も採るのに疲れることがある。

 そこで、イガグリ君について考えてみた。

 ドングリ、シイノミ、柿など含めて、彼らは風や蜂、蝶などの力で遠くに移動し、種をばらまくことが出来ない。おのずから野生動物や人に食べ、咥えられて運ばれるしかないのである。だから、美味しい実をつけなければならない。栗の実は美味しいが、花を付けた頃に虫が卵を産みつけ、実の中に入り込んでいる。実を食べながら成長し、実が落ちると出ていく。

 実は体中がイガイガだらけで、こんなに小さいからまだ食べないでね、と言っている。が、大きくなると体を割って落ち、美味しい私を食べてね、とうったえてくる。そこで実を採るが、厚い皮に守られていて、それを剥かねばならない。その次には、体中に渋皮が張り付いていて、それを削り取るのがすごく面倒である。これは栗の作戦なのである。(全部を食べないでね)と言い、渋い部分をこぼし落として、地面にまこうと考えているのである。

 虫に食われた栗は畑に捨てている。そこから芽が出て成長する。虫のお陰で人間に食われなかったわけである。

 

 

 

 

 そんな子育てをして、栗は親の木から離れた場所に芽を出し、成長していく。

 なんと、人間顔負けの、頭脳的な生き方ではないか!

婆ちゃんたちの色気。

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日記
執筆 : 
nakamura 2019-9-14 6:53

  会社を、定年でやめて、まわりの人々と付き合い始めると、右を向いても左を見ても婆ちゃんたちばかりである。自分は爺ちゃんであるが、婆ちゃんには興味がなかった。が、近頃は彼女らに若い女にはない魅力を覚えるようになった。

 パソコン教室の隣の彼女は、わたしが先生に質問して、メモを取ろうとすると、彼女のノートを切り取り、ボールペンをそえて、わたしの眼の前においてくれる。帰りには、菓子を一、二個、取り出して、僕の目の前にこっそり置いてくれる。

 八十歳近い老女は社会・政治活動の活発な人で、それらと環境問題など話し始めると、一時間も二時間もしゃべり、元亭主を町長選挙に立候補させたことなど、あの人は女の人が好きなの、というおひれまでつけて顔を輝かせてしゃべる。顔から皺が消え、肌も輝いて、三十年も若返る。

 ある老女は、朝は、お早う、夜は、お休み、とほぼ毎日、メールを送ってくれ、ひどい時には日に、二十件ものメールが来たことがあった。

 カラオケ教室の老女は、毎回、おかずをパックに詰めて持って来てくれ、げた箱の上にこっそり隠していたた。うれしかった。これらは若い女にはあまり見られないことである。時々、そんな婆ちゃんたちの手をこっそり握りたくなるが、そんな時、セクハラだと騒ぐだろうか?興味のあることである。

 これらは、爺ちゃんたちにはない性癖であり、やはり、女だな(母親だな)と胸を打たれ、女房に迎えたくなる昨今である。老いても、花盛り、である。

 

 

女の社会的力。

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日記
執筆 : 
nakamura 2019-9-10 7:12

  カラオケの会、英会話教室、俳句の会、障害者の会、年金の会、キリスト教といろんな団体に属してきたが、構成員の九割は女であった。寿命の長さは女の方が長いので女が中心になるのはやむをえないが、九割ともなると異常である。外国の場合はどうか知らないが、日本の男性は家と職場の往復生活がほとんどなので、退職するとその村社会から外に出ることができないのである。ここに日本社会の歪さがある。

 年金の会は政治闘争が中心のせいか、逆に男が九割を占めている。支部長ともよく話すのであるが、女を増やそう、という結論である。女は子育てを機会に学校や社会とのつながりが自然にでき、料理、趣味、買い物、衣服などの多彩な趣味を発揮していく。一人の女の会員と一人の男の会員では、十倍の力の開きが出てしまうのである。政治や企業もそれを知って、女を増やそうとしているが、思うようには増えていない。それは考え方に女特有の偏狭さがあるからであろう。女先生とのメールのやり取りにみられるように、主題から外れて感情論になってしまいがちなのである。全体を見落としてしまう。カラオケの歌い方を問うたのであるから、それだけに話を進めていけば、効果がでたはずであるが残念である。カラオケ教室は辞めました。

2ー女になりたい女、男になりたかった男。

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日記
執筆 : 
nakamura 2019-9-9 23:16

  ひとつ前のブログを読むと自分の文章が変に思える。自分で書いていながら何を書きたいのか、まだ、まとまっていない。それに、おかしな区切りの枠が出て、書きにくくなってしまった。小説として、女になりたかった女、男になりたかった男を登場させてからませれば面白いと考えた。

 女先生はそんな病気にかかりながら、陰の部分が色気としてにじみ出なかったのである。色気とは実体と重なり合いながら存在する陰みたいなものであるが、全方位的に明かりを浴びて出来ない場合がある。

 男勝りでありながら、自分の陰・女を求める女先生は興味深いし、それをドラマにして書き上げていくことも、能力があるかどうか別にして面白いし、今の時代に消えてしまったサドマゾを復活させてみるのも、あれは何だったのかと考えさせられて面白いのである。女先生の内部から、マゾ的なものや負圧的なものが出てくれば女になっていくであろう。歌においてもテクニックに頼る方であり、声の出し方に距離感という言葉で、5,4,3,2,1と数値化している。そうして、(造花)を作り上げていけば、生きた花より美しいものが出来上がるに違いない、造花教室の造花先生として。

女になりたい女、男になりたかった男。

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日記
執筆 : 
nakamura 2019-9-9 9:08

  今回のテーマは非常に面白いらしく、クリック数も日頃の10倍くらいになっている。定期的なチェックの数かもしれないが、書く意欲が湧いてくる。

 先ず、(男になりたかった男)について書いていこう。二年前、英会話教室に通っていて、初老女が私の顔を見て、ゲイみたい、と大声で言った。よくチャチャを入れる女であったが、そうか、よく見ているな・・、と思った。高校時代まで女みたいなタイプで、臆病で神経質でもあり、逞しい男に憧れていたのは事実である。大学時代に300円でさせてくれる女を紹介され、五年間ほど通って、男にしてもらった。行為の時に、入れたり出したりするのよ、と指導を受けた。大学の沖縄空手道剛柔会に三か月間ほど通い、一撃必殺の精神と技を鍛えてもらい、リンチをうけ、それまでの自分は完全に殺されたのでもあった。

 そこで、自分は男になったつもりであったが、70歳になってまで、女の余韻が残っているのであろう。余命も控えているので、ゲイであっても構いはしないし、個性の一つだと思う。

 (女になりたい女)

例の女先生のことであるが、プライバシーがあるのであまり詳しくは書けないが、仕事のために女を捨てました、と言った。なるほどな、と考えたが、キャリアウオマンのほとんだが男みたいだとはいえないし、中には女の色気をたっぷり持ってる人だっている。女先生の場合は本来の資質なのであるがそれを隠しているように考えられる。

 彼女はすごくネネルギッシュで明るく、さばさばして積極的である。一か月前にある病気がわかり、このままだと死んでしまう、と言われながらも落ち込むことはなかった。

 

色気。

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日記
執筆 : 
nakamura 2019-9-7 22:49

  ついにこの言葉にたどり着いた、感がする。

 わたしの顔は、若い頃、助平ったらしい、むっつりスケベ、と言われていたが、私を好きになった女からは(色っぽい)といわれることに気づいた。垂れ目、流し目で相手を見るとそんな印象になることが自分で分かった。昨日、床屋に行ったとき、少し離れて自分の顔をみると、下瞼が腫れて赤く、上瞼もそうで、すごく怖い顔であったが、散髪椅子に座って見ると、普通の爺さんの顔であった。理容師の女に、人の顔は光線の具合で変わりますね?というと、そうですよ、とうなづいた。

 つまり、色気とは何なのか?を考えてみたいのである。

  こんなヨーロッパ映画が記憶に残っている。ナチス政権のもとにおける男・親衛隊員、そして、その政権に抑圧された女を、鞭で叩き、ガーター・ストッキングの衣装で性的快楽を追求したものであった。かなり怖く、スリリングであったが、色気とは抑圧されたエネルギーがにじみ出る有様、表情であると言うことであることと理解する。今の開放的な時代においては消滅しており、復権するのは抑圧と暴力が、良い悪いの問題ではない。

 

 

いは別にして要求されるということである。

 

 

 

 辞典で調べれば、性的に惹きつける力、と書いてあるが、少し違うような気がする。表面にはチラリとしか出ない(陰の力)ではないかと思う。エロビデオを観ていて勉強になるのは、わざと作為的に興奮した顔を浮かべればそれはまったく効果がないどころか、減滅である。逆に興奮を抑えて見せないようにした場合の方が効果的である。そこに色気があるし、それは時代や国によっても異なる。

 例の女先生は男勝りで、(女になる)ことをいつも夢見、表情やいろんな仕草で訴えようとするが、そばにいても、パサパサ感しかない。わたしは彼女から練習中に叩かれたり、抓られたりしたことは熱意だと受け止めていたが、年上の爺さんにそんなことをする女に色気などが出るはずもない。

 色気とは内面からにじみ出る潤い、艶のようなものでこれも人工的に作れるものではないが、歌舞伎の女形は見事に作り出しているし、あれは性的に惹きつける力とは異なるものである。演技で色気を出すことも、歌に心をいれることと同じく、むずかしいものである。

歌に心を入れる。

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日記
執筆 : 
nakamura 2019-9-6 10:17

  カラオケ女先生とは、メールのやりとりで、「先生は自分の歌い方に対して、どう思われますか?しなをつくったり、笑顔をだすことばかりに気を取られて、心が消えてますよ」と書いたところ、怒り始めて、あなたは屁理屈屋でどこに行っても同調できない人、自己陶酔が強くオナニーに満足している、と関係ないことまで持ち出した。わたしは教える事には自信があります、とも書いてきた。女を怒らすことは面白く、すぐに個人的な攻撃をしてくることも知っていたが、深く考えてみるとそこで発見したことがあった。

それは人は練習して、歌が上手くなっても、気持ちを入れることは出来ない、ということである。それが出来るのは歌手のようなほんの一部の人なのであり、気持ちを入れるというマニュアルはなく、先天的、突然変異的なもので、指導は出来ないということであった。(ここで喜んでごらん、笑ってごらん、泣いてごらん)と言われて本気でそれが出来る人はいないし、まねごと程度なのである。でも、俳優や歌手、芸能人はそれが出来るのであり、訓練してそこに達するわけではない。

 感情というものはかなり複雑なもので、喜びの中に怒りや悲しみが混じってたり、怒りの中に喜びと悲しみが混じっていたり、色合い、と同じく少しの加減で正反対に移行するものである。そこをプロは微妙なニュアンスで色合いをつけていくことが出来るのである。

カラオケ発表会では、先生も含めて数人には心が入っているが、その他は発声練習の成果を出して、下腹部に力を入れてはっきり歌っているが、同じ歌い方で、個性は消えている。いわば、造花づくりに精を出して来たのであった。生きた花を育てていきたい。歌うのではなく、囁きかける、話しかける歌い方であり、それはちあきなおみの(赤とんぼ)に現れている。

 今回の良い体験で、良い小説が書けそうな気がする。

 

 

 

 

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