ブログ - 20190328のエントリ

春の陽に俯き花の想ひかな。

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2019-3-28 21:29

  春が来た。何年先か春が来なくなる自分に訪れたことはそれだけで感慨深い。五月には72歳になるわけだが、こんなに生きて良いのだろうかと考えてしまう。でも、春が春らしさを失い、沈黙に進んでいるのが感じられる。竹の子は50本ほど、猪に食われてしまい、根が張って彼らが諦めた残り物を二口食べた。やはり、歯触りが他の食べ物にはない心地良さである。竹の子にアクが出て、イノシシが去った頃、掘って少し食べ、産直店に出すであろうが、四、五十本ほどしかないであろう。以前の十分の一程度である。

 モンシロチョウの姿が減り、蜂のブンブン唸る声も減り、蛙も魚もすっかり減った。

 次は人間の番である。

 話は変わるが、若い頃には、花などには全く関心がなかったが、近頃は、朝起きると庭に出て、シャクヤクの伸び具合を見るようになった。全身が赤色であるが、これが緑に変わり、赤や白、ピンクの鮮やかな花をつけ、春の到来を咲きほこらせるであろう。だが、可哀そうなことに、二、三日もしないうちに切り取られ、店に売りに出されてしまう。我が庭の花は金に換えられるために産まれるようなものだ。

 花は本当に神秘的な生き物である。色、姿、枝ぶりなど知れば知るほど、人間の女以上に奥が深い。蝶や蜂を惹き付けるため、子孫を残すために計り知れない努力をしているのがわかる。庭梅の花を産直店に出してみると、女子店員がお客さんから、何という名前の花ですか?と尋ねられたと自分に言った。わからないでいると、もう一人の女子店員が、庭梅です、と答えてくれてやっとわかった。

 腰の高さにも満たない背丈であるが、小さな梅の花みたいのを付け、蕾は玉状に並んで何とも可愛い上、巻きあがるような枝ぶりが見事である。芸術家の手にかかった作品のようにいやそれ以上の技量である。

 観客は蝶や蜂であるはずなのに、どこか人を対象にでもしているような知性と美意識である。

 そうかと思うと、最近、気づいたのはクリスマス・ローズという花がいつも俯いているということであった。ほとんどの植物には向日性があるので、花は上を向いていると考えていたが、俯く花が存在してるということを知った。それは蘭や鬼百合など少なくはないのである。

 人間の女の場合でも、俯き笑みを見せる女は密やかな魅力がある。

 俯く花はその魅力を知って、そんな演技をしているのであろうか?それとも違う意図があるのだろうか?

 想像するだけでも楽しい花である。

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