ブログ - 20181112のエントリ
キリスト教を聖書で学び、教えてもらいながら、およそ一年が経とうとしている。それをテーマにした小説も完成した。どんな評価を受けるかわからないが、自分では満足しているし、意外な発見もした。
宗教の存在の意義だとか、イエスの生き方、信者達の考え、キリスト教の本質、などいろんなことを見出したが、自分の立っている場所、その意味合い、を知ったことは大きな収穫であった。一年間も、学びながら、神を感じることは無かったし、祈ろうともしなかった。それが不思議なことで、若い頃であればまちがいなく、手を組んでいたはずである。
つまり、祈ることがないのである。自分の余命はうまく生きてあと、十年ほどであろう。家庭もなければ、夢もない。いつ死んでもいい、心境であるし、死を待ってもいるのだ。
いつの間にか、そんな心境になってしまった。
そこで考えるのは、近代以前の日本人は切腹も含め、死を引き受ける構えがあった。元服の儀式にあるように、切腹を作法から学んだのである。それに引き換え、擬制の民主主義と資本主義に毒された現代は、死を否定し、長生きする商売の大繁盛である。
死んではいけない、苦しんではいけない、悩んではいけない、と、ないないずくし、を普及させ、そうしておいてたっぷりと金儲けのために利用するのである。いっそのこと、死を引き受けてしまえば、すぐにでも消える悩みは山ほどある。