ブログ - 201810のエントリ
十月十四日の、身障者の体育会を振り返ってみると、意外なことに気づいた。ゲームの半数以上は、不自由を楽しむものであった、ということである。音響競争は視覚障碍者がタンバリンの音によって、目的地に着くことであったし、福笑いは、目隠しされた競争者が白地の紙に、目や鼻や口をマジックで描く競争であったし、風船運びは二人が棒を担いで間に風船を挟んで走るゲームであったし、パン食い競争は口でパンを食いちぎるゲームであったし、それらは、不自由がゲームの基本になっていたのである。これは障害者だけでなく、健常者にも通じることである。日常的には、不自由は良くないことと見做されているはずなのに、楽しみの対象になっているのである。
ここで世間の一般常識が、いかにいい加減なものであることを訴えたい。一般常識に振り回されて犠牲になってる人間がいかに多いことか?新聞やラジオに人生相談のほとんどは一般常識に基準を置いた者達の泣き言である。レア、はそうではない。変わっている、ことに価値を置くのであるから。レア・ジョブという会社だって存在しているのである。レア、であることに誇りを持つべきである。
昨日は、秋晴れの日、(身障者の体育大会)があった。遠賀町、岡垣町、芦屋町、水巻町と四つの町の連合で、ボランティアや関係者など、およそ百人が集まり、賑やかで面白かった。自分は心臓バイパス手術を受けて、身障の四級であるが、体力もあり、ほとんど健常者に近い状態である。
風船遊び、お掃除上手、魚釣り競争、恋人合わせ、パン食い競争など、皆、顔を輝かせて楽しんだが、ラストの(車椅子200メートル競走)が白眉であった。五名ずつ、各町から出場したが、車椅子を日常的に必要としない者、毎日使っている者が混じっていて、我が町には使っている者が二人いて、どうなるものか?と思案した。
結果は我が町の一位であった。それは事前の予想通りで、日常的に車椅子を使っている者は圧倒的な速さを見せた。(最初から、ハンディを付けるべきではなかったかな?)などの会話を自分は親しい者と交えたが、日頃は身障者は弱い、と考えられていた先入観が見事にくつがえされたことは驚きであった。
平均年齢が100歳に近づいているが、それに比例して障害者は増える一方である。認知症も加算すると、人口の過半数を占める時代がやってくる。社会のシステムをはじめ、すべての環境がバリアフリーになっていくであろうし、考え方だって、障害者のそれが基準になっていく。
時代や社会が逆転する、のである。AIも加わり、旧人類の健常者たちは、レアの地位に落ちていくのである。
二十歳のころから、自炊生活を始めた。五十年間、たまの外食を除いて、自炊、孤食である。帰郷してからはそれに、野菜作りが加わった。振り返ってみると、食べ残して捨てることは、年に二、三回ほどしかない。
考えてみれば、これはすごいことである。多くの主婦が料理やそのローテーションに悩んでいるらしいが、自分にはほとんどなく、いつも美味しくいただいている。しかも、安い費用と新鮮さで食べているのであるから、感謝すべきである。自分で栽培した野菜を時々、産直店に出しているので農家への感謝と同時にその実態もわかってくる。
自炊の一つの例として、まず、豚骨の場合である。一握りで百五十円ほど出せば買える。鍋に玉ねぎ一個と豚骨の半分ほどを入れ、弱火で四十分ほど煮る。スープが出来たら、まず、ラーメンをつくってみる。どんぶりに、醤油を大スプーン一杯ほど入れ、次にスープを入れる。先に醤油を入れた方が混じりやすいのは焼酎のお湯割りをつくるのと同じ原理である。それに茹でた面を入れ、後は焼き豚、シナチクなど好きな添え物を入れる。
次のスープの利用法はおでんである。
次のスープの利用法はカレーライスである。
次のスープの利用法は煮物や佃煮づくりである。
百五十円の豚骨で五つの利用法がある。
以上の料理は二、三回にわけて、食べるので食べ残しはない。